インドネシアにとっての「インターナショナル」

 日本では「外国人」というと、どんな人がイメージされることが多いでしょうか。金髪碧眼の白人?それとも荷物をたくさん持った、せわしないアジア系の人でしょうか?あるいはもっと具体的に「○○人」という姿かもしれません。最近の日本のテレビでは、海外出身の人を集めてきたり、インタビューしたりして番組作りされることが多いですよね。そういう時にテレビに映る外国人はどんな姿をしてますか?どこの国出身の人が多いでしょうか。…というときにあなたが想像した「外国人」の姿、それこそ私たちが無意識に「外国人」として期待している姿かもしれません。日本にとっての「世界の国々」がどんな姿か。バラエティ番組における「外タレ」のふるまいや、外国人をテレビで取り扱うときの演出など(変にハイテンションな声を当てたり)はその期待を反映しているということもできます。

 海外で少し過ごすと、そういう前提が自明でなかったことに気が付きます。「なんだ私にとっての『世界』はこういう広がりしかなかったのか」と。逆に、「ここの国の人たちは世界にこういうイメージをもっているのか」という、その国の人々がもっている世界への期待、「外国人」カテゴリーへの期待にも、アウトサイダーだからこそ敏感に気が付いたりします。今回は、私が興味深いと思ったインドネシアにおけるそういった例のひとつを見ていきたいと思います。

 日本にも、日本に住む「日本語が不自由な外国人」を滑稽に取り上げることがありますよね(例えば、タレントのボ○ー・オロ○ンのテレビでのふるまいやそこで生まれる「笑い」などが典型です)。インドネシアにもそういうコメディーの形態があります。最近知った、「クラス・インターナショナル(Kelas Internasional)」という番組がその一例です。

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 この番組は、インドネシア語の語学学校のあるクラスの日常をおもしろおかしく描いたコメディドラマなのですが、そのクラスに入学した8人の「外国人」役の人々の姿が非常に興味深いのです。もし、日本の日本語学校を舞台にしたコメディだったら、どういう「外国人」が出てくるでしょうか。アメリカ人はたぶん出てきますし、中国人や韓国人もいるでしょう。ドイツ人やフランス人も可能性は高い。ロシア人やインド人は少し可能性は低いかな?あと挙げるとしたら…バランスを考えて1人アラブやアフリカからということになるでしょうか。インドネシア人がいる可能性はかなり低い。

 さて、ではインドネシアのこの作品ではどうか。出てくる外国人は国別に以下のとおり(順番は作中での自己紹介順)。

1.中国人(女性・銀行員)

2.韓国人(男性・電機機器メーカー社員)

3.日本人(男性・指圧師)

4.ナイジェリア人(男性・留学生)

5.インド人(女性・主婦)

6.コロンビア人(男性・コーヒーショップ店主)

7.オーストラリア人(男性・俳優)

8.ブラジル人(女性・モデル)

 どうでしょう?意外でしたか?ここで挙げたのは一話で紹介された人々なので、かならずしもそれ以降新しく登場する人々を含んでいませんが「主要キャラ」なのは間違いありません。

 非常に面白いのは、ヨーロッパの国が一つも入っていないことです。日本人は「外国人」というと、はじめにアメリカやヨーロッパの主要国をイメージするか、中国や韓国など「近いアジア」をイメージすることが多いのではないかと思いますが、インドネシアではだいぶ事情が変わるようです。

 ひとつひとつ見ていきましょう。中国人は「中国国際銀行」の社員で、「チャイナ・マネー」を連想させます。韓国人は電機機器メーカーに勤めていて、「歌うのが好き」と自己紹介し、韓国のアイドルっぽいファッションをしています。日本人は落ち着きがなく、いつもペコペコ頭を下げていて、発音がヘタ。そして、中国人と日本人、韓国人はいつもささいなことで口げんかをします。ナイジェリア人はにこにこ笑みを絶やさないけれど、いつも的外れなことそしてしまう純朴な青年。インド人の主婦はおっとりしたお金持ちで、コロンビア人のコーヒー店主は二枚目的な役回り。オーストラリア人の俳優はちょっと粗野で、ブラジル人のモデルは男性への身体的な接触が多い。

 動画を見てもらえば少しわかるかもしれませんが、インドネシア人が「外国人」の振る舞いとして面白がっていることは、日本人のそれとけっこう違うようです。こういった表現は、いっぽうではステロタイプを助長させているかもしれませんが、他方ではカリカチュアとしてさまざまな思惑でインドネシアに来る「外国人」を笑い飛ばしているわけで、インドネシア人の「外国人」感覚が非常に分かりやすい形で現れているこれ以上ないケースワークでもあります。

 さて、こうなってくると翻って日本のことが気になってきます。今後日本人は「外国人」というなんでも詰め込めるカテゴリーをどう利用し、どう操作していくのでしょう。そしてどう笑い、どう怖がり、どう政治化していくのでしょうか。その過程をみていくのに、日々消費されている表象は有用なツールになりそうです。

 

もうちょっとちゃんと書くつもりでしたが、力尽きました。気が向いたら第二弾を書くかも。