インドネシアのニュース:政治家ジョコウィは引退?
2024年7月18日のインドネシアのニュース
2期10年インドネシアの大統領を務めたジョコ・ウィドド大統領。前回の選挙でスハルトの娘婿としても知られるプラウォ・スビアントが次期大統領に就任することが決まっている。インドネシアのエリート層出身でもなく、過去の国軍のほの暗い匂いも薄いジョコウィはもともと「庶民派」の大統領として支持を集めていた。そのジョコウィの大統領退任後の動向が注目されている。
「プラボウォ政権下で最高諮問委員会のメンバーとなる可能性についてジョコウィが言及」
nasional.tempo.coPresiden Joko Widodo (Jokowi) menanggapi kemungkinan dirinya menjadi anggota Dewan Pertimbangan Agung (DPA) di pemerintahan presiden terpilih Prabowo Subianto. Saat ditemui di Pangkalan TNI AU Halim Perdanakusuma, Jakarta, Jokowi menegaskan bahwa rencananya tetap kembali ke Kota Solo setelah purnatugas sebagai Presiden RI. Jokowi menyatakan keinginannya untuk menjadi rakyat biasa di Solo.
ジョコ・ウィドド大統領(ジョコウィ)は、新しく大統領に選出されたプラボウォオ・スビアント政権のもとで、自身が最高諮問委員会(DPA)のメンバーとなる可能性について答えた。ジャカルタのインドネシア空軍基地でハリム・プルダナクスマと会合を持った先、大統領任期を満了した後はソロ市に戻ることを明言した。ジョコウィはソロの一般市民になりたいという意思を示している。
Pada 2 Januari 2024, Jokowi sudah menyampaikan keinginannya untuk kembali ke kampung halaman setelah masa jabatannya berakhir. DPR RI baru-baru ini menyetujui Rancangan Undang-Undang tentang perubahan Dewan Pertimbangan Presiden (Wantimpres) menjadi DPA, dengan beberapa perubahan termasuk jumlah anggota DPA yang tidak terbatas dan anggota partai politik diperbolehkan bergabung.
2024年1月2日に大統領の任期を終えたあとは故郷に帰る希望を持っているとジョコウィは話していた。インドネシア議会(DPR)は最近、大統領諮問委員会(Wantimpres)をDPAに改組する法案を可決しており、この中には定員の制限を撤廃すること、政党のメンバーが委員となることを可能にするなどの内容が含まれていた。
Mantan Wakil Presiden Jusuf Kalla menyatakan bahwa perubahan dari Wantimpres menjadi DPA memerlukan amandemen UUD 1945, menepis anggapan bahwa perubahan ini terkait dengan era Orde Baru.
前副大統領ユスフ・カラは、WantipersからDPAへの改組は1945年憲法の修正を傷つけるものではないと説明し、この改定がオルデ・バルへの後退だという意見を退けた。
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑦
1958年の中国訪問中、プラムディヤの個人的な人生においても、中国への認識に光をあてるような出来事がありました。Bahrum Rangkutiによるプラムディヤの伝記によれば、どうも中国での通訳の女性と恋愛関係にあったのではないかということが言われています。
プラムディヤが何を優先してきたかということについて説明するための一つの側面として無視できないことがあり、それはある中国人女性――流暢なインドネシア語を話す大学出の女性との親しい友人関係である。この女性はプラムディヤの中国滞在中のスピーチや講演の通訳だった。数週間にわたって二人は親しく交流を持ち、そして友情が愛情へと変わったのだった。最終的には二人ともそれぞれの個人的な関心は家族や国家のためには優先してはならないことを認識していのだった。彼らはその後もやりとりを続けたのですが、その内容は文学や文化、人生の意味など幅広いテーマに及んでいた。
(Bahrum Rangkuti ”Pramoedya”より)
この女性はChen Xiaruという名前でしたが、彼女とプラムディヤは1956年の最初の訪問時にすでに会っていました。彼女はインドネシア語の翻訳家として作家連盟にも加盟しており、翻訳作業では文化的・技術的な側面からかなりプラムディヤに意見を聞いて行っていたようです。そういった経緯もあってプラムディヤは彼女にとてもいい印象を持っていたようでした。インドネシアに帰国してからも報道関係者に対し、このChen Xiaruが「大学をたった二年で卒業し、インドネシアに行ったことがないのにも関わらずアブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ(誤ったしつけ)』*1をの翻訳と出版まで果たした」素晴らしい人物であると語っていました。プラムディヤの中国の作家と作家連盟に関する記事のなかにはChenの写真も含まれていました。
プラムディヤとChenの親しい関係は、彼の中国への好意的な評価を部分的に補強するものでした。こういった彼を取り巻く人間関係が無意識的に彼の創作活動に一定の影響を与えたという指摘もあります。「プラムディヤの作品は自伝的な文体が強く表れており、個人的な経験を文学的な型に当てはめたもの」としての性格があったということがブン・ウマルジャティ(Boen Oemarjati)などによっても指摘しています。Chen Xiaruのイメージはプラムディヤの象徴的な四部作*2のうちの第三部である『足跡』にも表れているといいます。これらの作品は基本的には実在するインドネシアの民族主義活動家であるティルト・アディ・スルヨの人生をもとにして描かれています(作中ではMinkeという人物として出てきます)が、これにはプラムディヤ自身との同一化や重なり合いがあるようです。『足跡』のなかではかなりの比重を割いて主人公Minkeと中国からきた若い革命家の女性Ang San Meiとの恋愛関係が繊細に描かれています。この女性は大学を出たフランス語と英語に堪能な人物として描かれ、Minkeのこの女性への情熱的なあこがれは彼女へと結婚の申し込みをするに至ります。しかし、Ang San Meiは病気でわずか3年後に亡くなり、結婚生活は短く悲劇的な結末を迎えます。
⑧へつづく
*1:Abdul Muis(1883~1959)の“Salah Asuhan”という1928年に発表された小説。アブドゥルは、オランダによって設置された植民地議会の議員でありながらオランダの東インド政庁に非協力の立場をとり、植民地政権を批判したため議会から追放された人物でした。議会から追放されたのち文学の活動を始め、“Salah Asuhan”はその最初の作品。西洋的な価値や習慣を崇拝・賛美する社会的な雰囲気に警鐘を鳴らした作品として知られます。日本では『西洋かぶれ――教育を誤って』というタイトルで松浦健二の翻訳が井村文化事業社より出版されています。
*2:「ブル島四部作」とも言われ、プラムディヤがいわゆる「9.30事件」の余波で逮捕されてブル島に抑留された14年の間に書いた四つの作品。
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑥
*1:1958年の「人民文化」より。なおプラムディヤはこの二回目のの中国訪問中、製鉄の作業に二回参加しました。
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑤
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国④
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国③
さて、①と②では、1950年代の前半にプラムディヤが中国の左派的な作家たちをその著作物を通じてどのように受容していたのかを中心に書いてきました。今回は満を持してプラムディヤが直接中国に乗り込んだ際のことについて書いていきます。
1956年10月、プラムディヤは1か月におよぶ中国滞在に旅立ったのですが、それは中国で政治的にも文化的にも大きな影響力を持っていた3人の作家から招待を受けてのことでした。この3人とは、中国文学芸術界聯合会の首席で中国科学院の院長でもあった郭沫若(Guo Moruo/グオ・モールオ)、中華人民共和国文化部部長であり、中国作家協会の首席でもあった茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)*1、そして中国人民対外文化協会の会長であり中国の文化外交政策で大きな影響力をもっていた楚図南(Chu Tunan/チュ・トゥナン)でした。プラムディヤは魯迅の死後20年の追悼集会に出席し、その後中国のいくつかの都市を訪問しました。
いったいなぜプラムディヤはこんな重要人物たちから中国へ招待されたのでしょう?
もちろんプラムディヤはインドネシアで最も知られた作家のひとりでしたが、政治的・文化的な立ち位置からいっても決して共産党の支持者というわけではありませんでした。実際、彼の初期の小説のなかには共産主義者たちのテロに対する否定的な描写が出てきており、そうしたことが原因となってインドネシア共産党の一部のメンバーとは関係が悪くなっていました。
ジャカルタの中国大使館によって収集された資料を含む公式の内部文書によれば、1950年代半ばのプラムディヤは、詩人であり雑誌編集者でもあったリヴァイ・アピン*2や作家のウトゥイ・タタン・ソンタニ*3などとともに「プチ・ブルジョワ的中道派」と位置付けられていました。これはすなわち「右派」ではなく、かといってLEKRAに所属しているような「左派」の作家でもないという意味で、インドネシアの知識人の大きな部分を占めているとして中国の対外文化連絡委員会の1962年の内部文書では以下のようにその特徴が説明されてたようです;
彼らの不満は目的が定まらないことにあった。彼らは、帝国主義者たちと運命を共にするつもりではないが、その一方で人民の闘争に加わる勇気を持たず、インドネシアの革命の理念を共にすることができないでいる。彼らは資本家の体制の弱さや腐敗による現実に満足しているわけでなく、現状を変えたいと望んでいる。しかしながら彼らは、民族革命の困難で先延ばしされた性質についてはっきりと自覚していないか、あるいはこの革命に対して十分な信頼を寄せていない。結果として、彼らは現在の社会的・政治的秩序に対して厳しく、また急進的な感情を持っている。
(対外文化連絡委員会によって1962年に作られた「印度尼西亚文化概况」より)
おそらく、プラムディヤが招待された背景には二つの理由があるものと思われます。
第一に、外国の中道・右派の立場をとる知識人を中国に招待するという中国の文化外交政策の方針が挙げられます。この政策の背後には、これらの知識人に中国の進歩的な側面を見せて中国に対して好意的な見方をするよう誘導し、本国での対中感情に大きな影響を与えようとする意図があったものと見られます。1954年から1960年まで駐インドネシア大使を務めた黄鎮(Huang Zhen)はその在職期間、盛んにこの文化外交政策を実現するよう働きかけを行っていたようです。
第二の理由はもう少し複雑で、インドネシア国内の文脈を踏まえなければなりません。1950年代半ばまでの間、インドネシア国内ではLEKRAという左派的な芸術家団体の拡張に伴って、文化的な領域における政治対立が強まりつつありました。LEKRAは1950年にインドネシア共産党に密接な関係を持って設立されたとする団体で、「人民のための芸術」*4を提唱して盛んにその領域を拡張しようとしていました。プラムディヤに対しても、左派的な文化運動に対して支持や共感を得るために働きかけを行っていたようでした。LEKRAが中国大使館にプラムディヤを中国に招待してはどうかと働きかけたとされる資料もあるようで、それもあって駐インドネシア大使館が北京の当局に推薦を出したとする推測もあるようです。
④につづく
*1:茅盾は、公人としては沈雁氷の名を使っていました。
*2:一応簡単な紹介はこちら:http://idwriters.com/writers/rivai-apin/
*3:インドネシア語でない紹介だと英語Wikiしか見当たらず:https://en.wikipedia.org/wiki/Utuy_Tatang_Sontani
*4:”Seni untuk Rakyat”