プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑦
1958年の中国訪問中、プラムディヤの個人的な人生においても、中国への認識に光をあてるような出来事がありました。Bahrum Rangkutiによるプラムディヤの伝記によれば、どうも中国での通訳の女性と恋愛関係にあったのではないかということが言われています。
プラムディヤが何を優先してきたかということについて説明するための一つの側面として無視できないことがあり、それはある中国人女性――流暢なインドネシア語を話す大学出の女性との親しい友人関係である。この女性はプラムディヤの中国滞在中のスピーチや講演の通訳だった。数週間にわたって二人は親しく交流を持ち、そして友情が愛情へと変わったのだった。最終的には二人ともそれぞれの個人的な関心は家族や国家のためには優先してはならないことを認識していのだった。彼らはその後もやりとりを続けたのですが、その内容は文学や文化、人生の意味など幅広いテーマに及んでいた。
(Bahrum Rangkuti ”Pramoedya”より)
この女性はChen Xiaruという名前でしたが、彼女とプラムディヤは1956年の最初の訪問時にすでに会っていました。彼女はインドネシア語の翻訳家として作家連盟にも加盟しており、翻訳作業では文化的・技術的な側面からかなりプラムディヤに意見を聞いて行っていたようです。そういった経緯もあってプラムディヤは彼女にとてもいい印象を持っていたようでした。インドネシアに帰国してからも報道関係者に対し、このChen Xiaruが「大学をたった二年で卒業し、インドネシアに行ったことがないのにも関わらずアブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ(誤ったしつけ)』*1をの翻訳と出版まで果たした」素晴らしい人物であると語っていました。プラムディヤの中国の作家と作家連盟に関する記事のなかにはChenの写真も含まれていました。
プラムディヤとChenの親しい関係は、彼の中国への好意的な評価を部分的に補強するものでした。こういった彼を取り巻く人間関係が無意識的に彼の創作活動に一定の影響を与えたという指摘もあります。「プラムディヤの作品は自伝的な文体が強く表れており、個人的な経験を文学的な型に当てはめたもの」としての性格があったということがブン・ウマルジャティ(Boen Oemarjati)などによっても指摘しています。Chen Xiaruのイメージはプラムディヤの象徴的な四部作*2のうちの第三部である『足跡』にも表れているといいます。これらの作品は基本的には実在するインドネシアの民族主義活動家であるティルト・アディ・スルヨの人生をもとにして描かれています(作中ではMinkeという人物として出てきます)が、これにはプラムディヤ自身との同一化や重なり合いがあるようです。『足跡』のなかではかなりの比重を割いて主人公Minkeと中国からきた若い革命家の女性Ang San Meiとの恋愛関係が繊細に描かれています。この女性は大学を出たフランス語と英語に堪能な人物として描かれ、Minkeのこの女性への情熱的なあこがれは彼女へと結婚の申し込みをするに至ります。しかし、Ang San Meiは病気でわずか3年後に亡くなり、結婚生活は短く悲劇的な結末を迎えます。
⑧へつづく
*1:Abdul Muis(1883~1959)の“Salah Asuhan”という1928年に発表された小説。アブドゥルは、オランダによって設置された植民地議会の議員でありながらオランダの東インド政庁に非協力の立場をとり、植民地政権を批判したため議会から追放された人物でした。議会から追放されたのち文学の活動を始め、“Salah Asuhan”はその最初の作品。西洋的な価値や習慣を崇拝・賛美する社会的な雰囲気に警鐘を鳴らした作品として知られます。日本では『西洋かぶれ――教育を誤って』というタイトルで松浦健二の翻訳が井村文化事業社より出版されています。
*2:「ブル島四部作」とも言われ、プラムディヤがいわゆる「9.30事件」の余波で逮捕されてブル島に抑留された14年の間に書いた四つの作品。
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑥
*1:1958年の「人民文化」より。なおプラムディヤはこの二回目のの中国訪問中、製鉄の作業に二回参加しました。
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑤
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国④
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国③
さて、①と②では、1950年代の前半にプラムディヤが中国の左派的な作家たちをその著作物を通じてどのように受容していたのかを中心に書いてきました。今回は満を持してプラムディヤが直接中国に乗り込んだ際のことについて書いていきます。
1956年10月、プラムディヤは1か月におよぶ中国滞在に旅立ったのですが、それは中国で政治的にも文化的にも大きな影響力を持っていた3人の作家から招待を受けてのことでした。この3人とは、中国文学芸術界聯合会の首席で中国科学院の院長でもあった郭沫若(Guo Moruo/グオ・モールオ)、中華人民共和国文化部部長であり、中国作家協会の首席でもあった茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)*1、そして中国人民対外文化協会の会長であり中国の文化外交政策で大きな影響力をもっていた楚図南(Chu Tunan/チュ・トゥナン)でした。プラムディヤは魯迅の死後20年の追悼集会に出席し、その後中国のいくつかの都市を訪問しました。
いったいなぜプラムディヤはこんな重要人物たちから中国へ招待されたのでしょう?
もちろんプラムディヤはインドネシアで最も知られた作家のひとりでしたが、政治的・文化的な立ち位置からいっても決して共産党の支持者というわけではありませんでした。実際、彼の初期の小説のなかには共産主義者たちのテロに対する否定的な描写が出てきており、そうしたことが原因となってインドネシア共産党の一部のメンバーとは関係が悪くなっていました。
ジャカルタの中国大使館によって収集された資料を含む公式の内部文書によれば、1950年代半ばのプラムディヤは、詩人であり雑誌編集者でもあったリヴァイ・アピン*2や作家のウトゥイ・タタン・ソンタニ*3などとともに「プチ・ブルジョワ的中道派」と位置付けられていました。これはすなわち「右派」ではなく、かといってLEKRAに所属しているような「左派」の作家でもないという意味で、インドネシアの知識人の大きな部分を占めているとして中国の対外文化連絡委員会の1962年の内部文書では以下のようにその特徴が説明されてたようです;
彼らの不満は目的が定まらないことにあった。彼らは、帝国主義者たちと運命を共にするつもりではないが、その一方で人民の闘争に加わる勇気を持たず、インドネシアの革命の理念を共にすることができないでいる。彼らは資本家の体制の弱さや腐敗による現実に満足しているわけでなく、現状を変えたいと望んでいる。しかしながら彼らは、民族革命の困難で先延ばしされた性質についてはっきりと自覚していないか、あるいはこの革命に対して十分な信頼を寄せていない。結果として、彼らは現在の社会的・政治的秩序に対して厳しく、また急進的な感情を持っている。
(対外文化連絡委員会によって1962年に作られた「印度尼西亚文化概况」より)
おそらく、プラムディヤが招待された背景には二つの理由があるものと思われます。
第一に、外国の中道・右派の立場をとる知識人を中国に招待するという中国の文化外交政策の方針が挙げられます。この政策の背後には、これらの知識人に中国の進歩的な側面を見せて中国に対して好意的な見方をするよう誘導し、本国での対中感情に大きな影響を与えようとする意図があったものと見られます。1954年から1960年まで駐インドネシア大使を務めた黄鎮(Huang Zhen)はその在職期間、盛んにこの文化外交政策を実現するよう働きかけを行っていたようです。
第二の理由はもう少し複雑で、インドネシア国内の文脈を踏まえなければなりません。1950年代半ばまでの間、インドネシア国内ではLEKRAという左派的な芸術家団体の拡張に伴って、文化的な領域における政治対立が強まりつつありました。LEKRAは1950年にインドネシア共産党に密接な関係を持って設立されたとする団体で、「人民のための芸術」*4を提唱して盛んにその領域を拡張しようとしていました。プラムディヤに対しても、左派的な文化運動に対して支持や共感を得るために働きかけを行っていたようでした。LEKRAが中国大使館にプラムディヤを中国に招待してはどうかと働きかけたとされる資料もあるようで、それもあって駐インドネシア大使館が北京の当局に推薦を出したとする推測もあるようです。
④につづく
*1:茅盾は、公人としては沈雁氷の名を使っていました。
*2:一応簡単な紹介はこちら:http://idwriters.com/writers/rivai-apin/
*3:インドネシア語でない紹介だと英語Wikiしか見当たらず:https://en.wikipedia.org/wiki/Utuy_Tatang_Sontani
*4:”Seni untuk Rakyat”
プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国②
1955年のバンドゥン会議*1の際、プラムディヤは中国の代表団と大使に接触を持ちました。それ自体、中国への関心が増していた表れでした。1956年のはじめ、プラムディヤは丁玲*2(ティン・リン/Ding Ling)の長い論文を翻訳しています。この論文は「生活と文芸」*3と題され、文化系の雑誌に掲載されました。丁玲の中心的な思想は、具体的な生活経験のなかからのみ良い文芸作品や芸術作品が生まれてくるとするもので、価値ある作品を作り出そうとするのなら、作家は人々の生活と生のなかに入っていかなければならないということが主張されていました。労働者、農民、兵士たちのために書くということを理解してこそ、作家は本当の意味で大衆のなかに統合されるとしたのです。
プラムディヤはこの議論にある程度納得しているように思われます。三か月後に発表されたエッセイで彼は作家は人々とともに生きるべきであり、そのためにも産業の労働者として直接その中に参加するべきだと述べ、丁玲の主張を繰り返しています。1956年10月までのプラムディヤの著作物を見るかぎりでは、プラムディヤはオランダ語や英語などの翻訳を通じて中国の作品を幅広く読んでおり、主要な中国の作家たち*4について詳しく知っていたことがうかがえます。1956年7月のエッセイでもプラムディヤは、中華人民共和国の政府が文化や教育を推進しようとしている姿勢に称賛の声を寄せています。プラムディヤは、中国でもっとも優れた著名な作家として茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)や魯迅(Lu Xun/ルー・シュン)の二人の名前を挙げ、社会的責任に意識的な新しい世代の作家であったことをその理由として述べていました。1956年の半ばまでにプラムディヤは魯迅の小説「狂人日記」の翻訳をある程度まで終えていたようです。
1956年はプラムディヤにとって大きな岐路となりました。故国の惨憺たる現状を認識して、インドネシアの変革が失敗に終わったことが確信に変わり、意気消沈してしまっていました。「普遍的ヒューマニズム」はインドネシアが直面する膨大な社会的・政治的問題に対してまったく無力であることが明らかとなり、インドネシアの作家たちの貧しい経済状況と組織の欠落に深い失望を抱いていました。そんな中でプラムディヤは、より大きな社会的認識、知識人のより活発な役割を望むようになっていきました。
プラムディヤは共産主義への不信もあって左派的な芸術家たちが作っていた組織に参加することを避けてきており、1956年の段階では孤立して新しい方向性を探っていました。そのうえ1953年にオランダに滞在した際の「西洋的な文化がインドネシアの問題を解決する糸口にはならない」という幻滅感も手伝って、インドネシアの何が間違っているのかということについてのプラムディヤの文芸の方向性や政治的イデオロギーの(再)構築において、中国(中華人民共和国)がその参照点としてメタフォリカルな地位を占めるようになっていました。中国の作品の翻訳に力を入れていたことからも、彼が中国の文化的実践に強く関心を持っていたことが分かります。実際、彼は、自身の文化的態度と中国共産党の文芸の方針が合致していたことを認識していようです。両方ともが大衆の運命について強い関心を寄せていることに共通点がありましたが、一方でプラムディヤにとっては、それは未分化の「小さな人々」として社会的に表象される存在であるのに対し、中国の作家たちにとってはそれは労働者階級、すなわち農民や労働者や兵士たちのことを指していました。
③につづく
*1:アジア・アフリカ会議とも呼ばれる。アフリカから6か国、アジアから23か国が参加して開催された国際会議。冷戦が本格化するなかで米ソどちらの陣営からも影響を排した非同盟国首脳会議で、平和十原則と呼ばれる国連の尊重や軍縮、民族自決を基調とした文書を採択しました。スカルノの強いリーダーシップのもと行われたことによりインドネシアの威信を高めるとともに、この会議で確認された内容がその後の非同盟主義運動に道筋をつけることになりました。
*2:丁玲は1904年生、1986年没の駐豪の女流作家。1930年に結成された左翼作家連盟に参加し、のちに中国共産党に入党。中国では最も著名な作家のひとりである。
*3:タイトルは「Hidup dan Penulisan Kreatif」で、プラムディヤはおそらく英語から翻訳されたものとみられ、それを考えるともとのタイトルは「Life and Creative Writng」となります。