プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑦

 1958年の中国訪問中、プラムディヤの個人的な人生においても、中国への認識に光をあてるような出来事がありました。Bahrum Rangkutiによるプラムディヤの伝記によれば、どうも中国での通訳の女性と恋愛関係にあったのではないかということが言われています。

 プラムディヤが何を優先してきたかということについて説明するための一つの側面として無視できないことがあり、それはある中国人女性――流暢なインドネシア語を話す大学出の女性との親しい友人関係である。この女性はプラムディヤの中国滞在中のスピーチや講演の通訳だった。数週間にわたって二人は親しく交流を持ち、そして友情が愛情へと変わったのだった。最終的には二人ともそれぞれの個人的な関心は家族や国家のためには優先してはならないことを認識していのだった。彼らはその後もやりとりを続けたのですが、その内容は文学や文化、人生の意味など幅広いテーマに及んでいた。
(Bahrum Rangkuti ”Pramoedya”より)

 この女性はChen Xiaruという名前でしたが、彼女とプラムディヤは1956年の最初の訪問時にすでに会っていました。彼女はインドネシア語の翻訳家として作家連盟にも加盟しており、翻訳作業では文化的・技術的な側面からかなりプラムディヤに意見を聞いて行っていたようです。そういった経緯もあってプラムディヤは彼女にとてもいい印象を持っていたようでした。インドネシアに帰国してからも報道関係者に対し、このChen Xiaruが「大学をたった二年で卒業し、インドネシアに行ったことがないのにも関わらずアブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ(誤ったしつけ)』*1をの翻訳と出版まで果たした」素晴らしい人物であると語っていました。プラムディヤの中国の作家と作家連盟に関する記事のなかにはChenの写真も含まれていました。
 プラムディヤとChenの親しい関係は、彼の中国への好意的な評価を部分的に補強するものでした。こういった彼を取り巻く人間関係が無意識的に彼の創作活動に一定の影響を与えたという指摘もあります。「プラムディヤの作品は自伝的な文体が強く表れており、個人的な経験を文学的な型に当てはめたもの」としての性格があったということがブン・ウマルジャティ(Boen Oemarjati)などによっても指摘しています。Chen Xiaruのイメージはプラムディヤの象徴的な四部作*2のうちの第三部である『足跡』にも表れているといいます。これらの作品は基本的には実在するインドネシア民族主義活動家であるティルト・アディ・スルヨの人生をもとにして描かれています(作中ではMinkeという人物として出てきます)が、これにはプラムディヤ自身との同一化や重なり合いがあるようです。『足跡』のなかではかなりの比重を割いて主人公Minkeと中国からきた若い革命家の女性Ang San Meiとの恋愛関係が繊細に描かれています。この女性は大学を出たフランス語と英語に堪能な人物として描かれ、Minkeのこの女性への情熱的なあこがれは彼女へと結婚の申し込みをするに至ります。しかし、Ang San Meiは病気でわずか3年後に亡くなり、結婚生活は短く悲劇的な結末を迎えます。

 

⑧へつづく

*1:Abdul Muis(1883~1959)の“Salah Asuhan”という1928年に発表された小説。アブドゥルは、オランダによって設置された植民地議会の議員でありながらオランダの東インド政庁に非協力の立場をとり、植民地政権を批判したため議会から追放された人物でした。議会から追放されたのち文学の活動を始め、“Salah Asuhan”はその最初の作品。西洋的な価値や習慣を崇拝・賛美する社会的な雰囲気に警鐘を鳴らした作品として知られます。日本では『西洋かぶれ――教育を誤って』というタイトルで松浦健二の翻訳が井村文化事業社より出版されています。

*2:「ブル島四部作」とも言われ、プラムディヤがいわゆる「9.30事件」の余波で逮捕されてブル島に抑留された14年の間に書いた四つの作品。

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑥

 プラムディヤは、1958年にふたたび中国へと渡りました。この時には彼は、1956年の初めての中国訪問時に比べても「新しいプラムディヤ」とでも言えるほどに文化的・政治的な思想を変化させていました。中国もまた、「大躍進」政策と「人民公社」運動によってその情景と人々の雰囲気を変化させつつありました。結果としてプラムディヤは、新しい中国を新しい政治的・文化的な立場から観察することになったわけです。そして彼にとって中国はいまだにインスピレーションの源泉であり、彼はこの二回目の中国訪問によって自分の文化的ラディカリズムをより一層加速させていくことになるのでした。
 二回目の訪問は、ソ連タシケントで行われたアジア・アフリカ作家会議と連動したものでした。プラムディヤはインドネシアの代表団の代表としてこれに参加していましたが、会議が終わったあとに中国を経由してインドネシアへと帰国したのでした。この帰路はおよそ一か月にも及ぶもので、北京をはじめ、武漢成都昆明などを歴訪しました。この時には中国当局はもはやプラムディヤのことを「無計画で失望感を抱えたプチ・ブル的な作家」とはもはや見ていませんでした。むしろ彼のことを、中道派の「空想的な陣営」から抜け出し、「民族と民主主義の戦線」に新たに加わった代表的な人物とすら評価していました。プラムディヤが中国に到着したとき、中国の作家連盟が主催してこのインドネシアからのゲストを歓迎する会が開かれたのですが、この会では三つの中心的なテーマが議論に上りました。一つめは、「アメリカ帝国主義は張子の虎」であり、人々が団結してこれに立ち向かえば打ち負かすことができるということ。二つめは大規模に経済発展しつつある中国の経験と到達が与えている影響について。三つめとしては、文化的な領域においても「政治こそが司令官」であるという原則が改めて強調されたことでした。中国の作家や公人との会合ではこれ以外にも議論が交わされたようでした。たとえば周揚はほかにも中国の要人たちが「作家は毛沢東の路線を引き継がなければならない」ということを主張する中で、「革命的ロマン主義」について語っていました。1956年と比べても、1958年はより「政治化」して雰囲気が中国の文化人たちを支配していました。プラムディヤは表面的にはこれらのトピックについて真剣に受け止め、また大筋としてはこういった議論に賛同していたようです。
 1958年までの時点で、プラムディヤはもはや距離を置いた傍観者ではなく、積極的な参加者となっていました。1956年の時点ではプラムディヤは芸術や知識人が社会で果たすべき役割についてアンビバレントな態度をとっており、中国を見た印象も驚きと羨望に彩られたものでした。それに対して二回目の訪問では、プラムディヤはより突っ込んだ政治的意味合いにおいて好意的な見方をしており、また種々の問題についても率直に政治的意見を述べるようになっていました。言ってしまえば彼にとっての中国もはや文化的なシンボルというより、政治的なシンボルとして受け止められていたのです。彼は中国の作家たちの「人間の精神の巧みな遂行者」としての役割について称賛を続けていましたが、むしろ中国の政治的状況とその影響についてより強く共感していたのは、西欧の様々な影響、とくに植民地主義帝国主義の問題についてでした。彼は、その中心を北京におく植民地主義帝国主義に対抗するための統一戦線の設立を望んでいました。プラムディヤのアートと社会の関係についての考え方はもはや曖昧なものではなく、はっきりとアートが人々に対して責任があることを認識していたのです。この責任とはすなわち、ただ社会的な意識を体現するだけでなく、作家はその前線で闘わなければならないということでした。こうしてプラムディヤの二回目の中国滞在は、彼の中国人民への期待を強めるとともに、中国からより一層学び取らなければならないことを確信にしたのでした。1959年末にプラムディヤはこう書いています。
 率直に私は、不屈で、巧みで、勤勉で、誠実で、そして革命的な中国人民の様子に敬服している。ブルジョワでないインドネシアの人民は中国から大きく学びを得ることができる。特に国家建設の点からいえば、これまでの歴史ではこんなにも短い期間に巨大な規模の国家が作られたことなどないのだから。このような革命は地球全体と人類を変えようとしているのだ!そしてこれこそが中華人民共和国なのだ。
(1960年のジャカルタBintang Press紙“Hoa Kiau di Indonesia”(インドネシアの華僑)より)
 実際に社会や政治の変革に関与していく中国の作家たちの具体的な実例として、プラムディヤは「製鉄」のプロセスに注目しました。すでにのべた通り、当時の中国は集団的・ユートピア的な夢想であり、全国的な楽観主義でもあった「大躍進」政策のさなかであり、1959年内に300万トンの鉄を生産することを必達の目標としていました。これは「イギリスを超え、アメリカに追いつく」ことを産業の領域における目標としたための数字でした。「裏庭の溶鉱炉」とでもいうような原始的な方法による製鉄の励行策には例外なく知識人も大規模に参加することになったのでした。プラムディヤはこれについても熱心に注目し、北京に到着した三日後にこう述べています。「製鉄はインドネシアにとっても喫緊の課題だ。私自身もかつてインドネシア政府に製鉄・製鋼をもっと広げるべきだと提案したことがあった。それもあって、急に言ったことではあったが、私も製鉄の作業に参加させて欲しいと申し出た。将来的にはインドネシアにもこの新しい経験を広げることになるかもしれないと思ってのことだった。*1」プラムディヤは、単なる身振りとかリップサービスとしてというより、本気でこれに注目していたらしく、参加した製鉄作業の詳細な手順をメモに残しています。彼のこういった参加は、幅広い象徴的な意味あいを持っています。すなわち、孤立と幻滅の局面を乗り越え、ペンのみによってではなくむしろ直接参加することによって社会を変革していく方法についてまともに考えて実行しようとしていたと見ることも出来るように思われます。
 
⑦へつづく

*1:1958年の「人民文化」より。なおプラムディヤはこの二回目のの中国訪問中、製鉄の作業に二回参加しました。

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑤

 北京での会議のあと、プラムディヤは上海、南京そして広東を立て続けに訪れました。彼はインドネシアの記者に対して、ヨーロッパでの経験に比べると中国の人々とはより友好的な接触を持つことができたこと、そして中国での滞在経験を喜ばしく感じていることを伝えていました。中国でプラムディヤは他にもいくつかの会合に参加し、周揚、茅盾を始めとして巴人*1、揚朔、劉白羽、劉知侠、郭小川、李鋭*2など中国文学界の錚々たる面々と会いました。これらの会合はすべて和やかな雰囲気のなかで行われ*3、プラムディヤと作家たちのコミュニケーションがつつがなく行われるようにその手段も万全に確保されていました。
 こういった会合で、プラムディヤと中国の知識人との間で特に意見交換が行われたのは主に二つ点でした。一つ目は、もともとはソ連から導入され、毛沢東や文化の分野の理論家によって中国独自にローカル化された「社会主義リアリズム」と呼ばれる文学のアジェンダについてでした*4。このアジェンダの中心となっている考え方は、芸術作品は社会的現実と人々の生活を反映するべきであるという信念でした。また中国の作家たちは「芸術は芸術の目的のためのものである」考え方が誤っていると暴くことに多くの時間を費やしていました。二つ目の論点は、「芸術は人民に奉仕するべきである」という、1942年に毛沢東の「文芸講和」*5によって始めて体系的に述べられたテーゼでした。すでに述べた通り、プラムディヤはこういった考え方にある程度共感を示していましたが、もう一方の考え方(貴族主義的な芸術観)との間で相反する曖昧な態度をとっていました。「社会主義リアリズム」と「人民に奉仕する芸術」の中国における提唱者たちとの議論を通して、プラムディヤはこうした方針に対する好意的な評価と理解を深めたようでした。
 プラムディヤのはじめての中国滞在の印象はまさに圧倒的なものでした。彼は中国の急速な社会と経済の"前進"に惹きつけられ、またそれが中国の「歴史に残るような」人々によって可能になったということを強く感じていました。プラムディヤは中国で感じたことについてこう言っています。「中国の人々にとって重要なことは、お金でもなく、利益でも損でもない。誠実さと、自覚、そして労働だった。」
 彼は「ロマン主義プラグマティズム」の精神を同時に持ち、個人の利益のためではなく、民族や社会の関心に沿って働く中国の人々に驚嘆したようでした。プラムディヤは中国のことを「今まさに作られつつある伝説」と評し、中国の革命を単なる部分的改良ではなく「全体におよぶ根本的な変化」であるとまで表現しました。1950年代に中国を訪れたほかの多くのインドネシア人と同様、プラムディヤも中国について自国と対比的に好意的なイメージを持ったのでした。
インドネシアでは人々は己のことだけを考えて行動する。あちら(中国)ではみんなが他者のことを考える。こちらでは生き延びるために人々が強欲になり、あちらでは欲望の本能は放棄され、根絶されていた。」
(1957年1月のMimbar Indonesia誌“Sedikit tentang Pengarang Tiongkok”(「中国の作家についての小論」)より)
 作家であることもあり、プラムディヤは中国における知識人と社会との関わりに特に関心を寄せていました。すでに述べましたが、この「知識人と社会」は彼が取り組もうとしている中心的な課題でもありました。中国での実践が彼に与えた示唆は単にインドネシアのどこが問題かという参照項としてのものだけでなく、実現可能なモデルを提供したのでした。中国に対するプラムディヤの好意的な評価の一つが、作家や芸術家の社会的・政治的地位が非常に高いことがありました。
「中国の作家たちは高い地位を占めている。彼らの意見は社会にきちんと耳を傾けられるのだ。政治家とともに彼らは精神的なリーダーであり、現代の国家建設において非常に重要な役割をはたしている。だからこそ社会において彼らは注意深く扱われるのだ。」
(同上)
 プラムディヤは、中国の作家の高い社会的地位と出版物から受けとる惜しみない経済的報酬は一つの指標だとみなしていました。
「作家として私の関心を強く引いた事実の一つに、新しい中国では作家の生活保障がされていることだった。あちらでは、作家は人間らしいくらしを自分のペンによって成り立たせることができる。」
(同上)
 プラムディヤは劉之侠の例を挙げてこれをさらに補強しています。劉知侠は小説「铁道游击队(鉄道遊撃隊)」を出版したことで、40万元の報酬を受けました。この額は中国の省庁における大臣の月給の240倍であり、言い換えれば劉は一つの小説によって大臣並みの生活を20年続けることができるのだとプラムディヤは強調します。こういった作家たちに対する物質的な見返りは、「最高の権威によって中国では文化が援助されている」ことの一例なのだと主張しました。
 中国の作家がうらやむほどの社会的地位を持っていることについてのプラムディヤの熱心な描写の背景には、インドネシアで彼の理想を実現するうえで実際に中国の実践が役立つのではないかという期待があったようです。1956年以前にも、プラムディヤはインドネシアの作家たちが作品から得ることができる経済的な見返りの少なさについて繰り返し不満を述べていました。作家たちにより敬意が払われるよう、また彼らのクリエイティブな地位に見合った見返りが得られるように求めてきていました。しかしその一方で、中国における実践は、プラムディヤに知識人の社会的・政治的地位の高さは彼らが民族や国に貢献していることと不可分であることを示したのでした。彼は中国の作家たちの高いレスポンシビリティは、彼らが中国の政治的変革に関与してきたことの直接的な結果であると見ていたのです。プラムディヤは中国の作家たちがきちんと社会の現実について理解することによって人々の模範となっており、自己中心的な関心に左右されていないことを強く感じていたのです。逆を言えば、すなわち知識人はまず社会的・政治的プロセスに活発に参加しなければ、その地位を高めることはできないのだ、と。傍観者的な立場は社会における作家の立場を危うくすると考えたのです。
 中国への旅行は、国家を建設するプロセスに作家が関わるために、にいかに作家たちを組織するかという問題への大きな示唆をプラムディヤに与えました。中国に行く前にも、プラムディヤはインドネシアで作家たちが退廃的な社会の雰囲気に対抗するために組織を作る必要があることを提言していました。しかし一方で彼は有効な組織が存在しないことについて失望感を抱えており、そのような状況こそがインドネシアの知識人が直面している困難であるとも考えていました。中国での文化政策に関わる要人との会合は概して彼にそういった問題について大きな示唆を与えましたが、特に作家連合の議長である茅盾との議論は、プラムディヤに具体的な例を示すことになりました。インドネシアに帰国してすぐ、彼は作家連合(Serikat Pengarang)の有用さについてのエッセイを書いています。彼はこういった作家の組織の五つの機能と、またそれがどのようにその所定の目標を達成することができるのかということをエッセイの中で述べました。それらの機能は「生活経験を踏まえて作家たちを参画へと組織すること」から「先進的な国々と文化交流をすること」までに様々に及んでいます。プラムディヤの中国の作家たちが高度に社会に統合されていることへの称賛は、これら作家たちの作品にたいする好意的な評価と結びついています。すでに何度も述べた通り、プラムディヤはこれまで相反する二つの芸術に対する見方――「芸術の目的のための芸術」と「人々のための芸術」――を持っていたわけですが、1956年の終わりにはプラムディヤは後者に大きく傾斜していたということでした。プラムディヤはこう書いています。
国際的な文学の立場から見れば、中国の文芸は形式主義的なものである。しかしながら中国の現在の状況から見るなら、そこに大きく批判する余地はないのだ。なぜなら中国は今まさに大衆の大きな構築のさなかにあるのだから; 作家たちは金銭のためではなく、大衆の教化のために作品を書くのである。
(1956年11月Hsin Pao誌)
 
⑥へつづく

*1:本名を王任叙といい、作家、批評家、翻訳家として中国で知られています。また、のちに中国の在インドネシア大使となり、魯迅全集や茅盾全集、郭沫若全集などを出版している人民文学出版社の編集者ともなりました。

*2:この人物は二年後に毛沢東の個人秘書にもまりました。

*3:たとえば巴人宅での会合では夕食のあともほかの予定より優先させて熱心に議論を続けたそうです。

*4:魯迅は「社会主義リアリズムの偉大な開拓者であり、その代表者」であるとして中国では称えられていました。

*5:1942年に延安で開かれた作家や芸術家たちによる座談会(延安文艺座谈会)の内容がまとめられたもの。

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国④

 プラムディヤは1956年の10月中ごろに北京にむけて出発しましたが、その時の彼の心境は、中国そのものに対する理解を深めたいというよりは、むしろインドネシアの現実についての思索を深める機会が中国にあるのではないかと期待してその意味で価値あるものにしたいと思っていたようです。のちに彼はこう振り返っています。
外国を訪れた時、私は2つのことに特に注目するようにしている。先進国と呼ばれる国へ行った場合には何の疑問も浮かばない。しかし新しい、若い国に行った場合には、私はそこから学びを得なければならない。なぜならそこには、その国とそこに住む人々の命運をより良いものにするためにどうすればよいのかという点で必ず共通性が見られるからだ。中国はこういった新しい国のひとつである。もし私が中華人民共和国に影響されるとしたら、それは中国がすでに自身を確立させた新しい国だからである。インドネシアもまた新しい国である。新しい国同士には、必ずある類似がみられるはずだ。よい例として学ぶべきものもそこにはあるだろう。実際、その時中華人民共和国を見た限りでは、インドネシアよりずっと成功しているように思われた。
(元の文章のChinaを中国、PRCを中華人民共和国とした)
 プラムディヤの中国での最初の活動は、魯迅の死後20年追悼集会に参加することであった。この集会は広く宣伝されて、20か国以上の国々から作家が出席しており、新しく独立した諸国の知識人たちに魯迅についてアピールする機会となったようです。郭沫若や茅盾はこのとき、それぞれの基調講演で魯迅の偉大さがその革命的な思想と人々への献身に由来するものだということを強調しました。とくに郭沫若は、出席した国外からの参加者に対して中国の知識人がほかの国の文化労働者の期待に応える用意があることを受けあったわけです。中国の新しい文化が世界の文化に大きく貢献するし、中国は新たな魯迅を次々に生み出していくのだ、というわけでした。国外からの出席者のひとりとしてプラムディヤもこの集会で発言の機会があり、その中で彼は魯迅について、社会に対する鋭い洞察のみならず、より重要なこととしては大衆の命運を良くしていくために闘う意思と能力を持っていることをもっていた、と称えました。「魯迅は彼の国、そして彼の人民の声そのものであった。人類の高邁な希望に満ちたモラルの目覚めを体現していたのだ。彼は単に希望だったということにとどまらず、最善のそして最適の手段――すなわち文学――をもって、その理想を実現しようと努めたのだ。」こうプラムディヤは続けました。この魯迅の理解は、プラムディヤのインドネシアの知識人に対する強い思いを再び燃え上がらせることになりました。
すべての作家が責任を負っている。そしてそれは、その選択するべきものとしての責任である。魯迅は困難と困窮に苦しむ人々の側にたつことを選んだ・・・彼は選択したのみならず、彼の理想を確かなものとするために闘った。彼は思想の上でもリアリストだったし、行動の上でもリアリストだったのだ。
 この思想と行動を結び付けた考え方は、インドネシアの文化や社会の問題を解決するより効果的な方法を熱心に探究してきたプラムディヤに、もっとも現実の問題に密接の関わるモデルを与えることになりました。そして中国語の公式な注釈を踏まえた魯迅の作品は、明らかにプラムディヤの物の見方に大きな影響を与えました。中国から帰国したあとも、プラムディヤは魯迅のことを偉大な知識人としてだけではなく、「中国の社会主義リアリズムの父」として認識していたのでした。
 
⑤につづく

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国③

 さて、①と②では、1950年代の前半にプラムディヤが中国の左派的な作家たちをその著作物を通じてどのように受容していたのかを中心に書いてきました。今回は満を持してプラムディヤが直接中国に乗り込んだ際のことについて書いていきます。

 1956年10月、プラムディヤは1か月におよぶ中国滞在に旅立ったのですが、それは中国で政治的にも文化的にも大きな影響力を持っていた3人の作家から招待を受けてのことでした。この3人とは、中国文学芸術界聯合会の首席で中国科学院の院長でもあった郭沫若(Guo Moruo/グオ・モールオ)中華人民共和国文化部部長であり、中国作家協会の首席でもあった茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)*1、そして中国人民対外文化協会の会長であり中国の文化外交政策で大きな影響力をもっていた楚図南(Chu Tunan/チュ・トゥナン)でした。プラムディヤは魯迅の死後20年の追悼集会に出席し、その後中国のいくつかの都市を訪問しました。

 いったいなぜプラムディヤはこんな重要人物たちから中国へ招待されたのでしょう?

 もちろんプラムディヤはインドネシアで最も知られた作家のひとりでしたが、政治的・文化的な立ち位置からいっても決して共産党の支持者というわけではありませんでした。実際、彼の初期の小説のなかには共産主義者たちのテロに対する否定的な描写が出てきており、そうしたことが原因となってインドネシア共産党の一部のメンバーとは関係が悪くなっていました。

 ジャカルタの中国大使館によって収集された資料を含む公式の内部文書によれば、1950年代半ばのプラムディヤは、詩人であり雑誌編集者でもあったリヴァイ・アピン*2や作家のウトゥイ・タタン・ソンタニ*3などとともに「プチ・ブルジョワ的中道派」と位置付けられていました。これはすなわち「右派」ではなく、かといってLEKRAに所属しているような「左派」の作家でもないという意味で、インドネシアの知識人の大きな部分を占めているとして中国の対外文化連絡委員会の1962年の内部文書では以下のようにその特徴が説明されてたようです;

 彼らの不満は目的が定まらないことにあった。彼らは、帝国主義者たちと運命を共にするつもりではないが、その一方で人民の闘争に加わる勇気を持たず、インドネシアの革命の理念を共にすることができないでいる。彼らは資本家の体制の弱さや腐敗による現実に満足しているわけでなく、現状を変えたいと望んでいる。しかしながら彼らは、民族革命の困難で先延ばしされた性質についてはっきりと自覚していないか、あるいはこの革命に対して十分な信頼を寄せていない。結果として、彼らは現在の社会的・政治的秩序に対して厳しく、また急進的な感情を持っている。

(対外文化連絡委員会によって1962年に作られた「印度尼西亚文化概况」より)

 おそらく、プラムディヤが招待された背景には二つの理由があるものと思われます。

 第一に、外国の中道・右派の立場をとる知識人を中国に招待するという中国の文化外交政策の方針が挙げられます。この政策の背後には、これらの知識人に中国の進歩的な側面を見せて中国に対して好意的な見方をするよう誘導し、本国での対中感情に大きな影響を与えようとする意図があったものと見られます。1954年から1960年まで駐インドネシア大使を務めた黄鎮(Huang Zhen)はその在職期間、盛んにこの文化外交政策を実現するよう働きかけを行っていたようです。

  第二の理由はもう少し複雑で、インドネシア国内の文脈を踏まえなければなりません。1950年代半ばまでの間、インドネシア国内ではLEKRAという左派的な芸術家団体の拡張に伴って、文化的な領域における政治対立が強まりつつありました。LEKRAは1950年にインドネシア共産党に密接な関係を持って設立されたとする団体で、「人民のための芸術」*4を提唱して盛んにその領域を拡張しようとしていました。プラムディヤに対しても、左派的な文化運動に対して支持や共感を得るために働きかけを行っていたようでした。LEKRAが中国大使館にプラムディヤを中国に招待してはどうかと働きかけたとされる資料もあるようで、それもあって駐インドネシア大使館が北京の当局に推薦を出したとする推測もあるようです。

④につづく

*1:茅盾は、公人としては沈雁氷の名を使っていました。

*2:一応簡単な紹介はこちら:http://idwriters.com/writers/rivai-apin/ 

*3:インドネシア語でない紹介だと英語Wikiしか見当たらず:https://en.wikipedia.org/wiki/Utuy_Tatang_Sontani

*4:”Seni untuk Rakyat”

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国②

 1955年のバンドゥン会議*1の際、プラムディヤは中国の代表団と大使に接触を持ちました。それ自体、中国への関心が増していた表れでした。1956年のはじめ、プラムディヤは丁玲*2(ティン・リン/Ding Ling)の長い論文を翻訳しています。この論文は「生活と文芸」*3と題され、文化系の雑誌に掲載されました。丁玲の中心的な思想は、具体的な生活経験のなかからのみ良い文芸作品や芸術作品が生まれてくるとするもので、価値ある作品を作り出そうとするのなら、作家は人々の生活と生のなかに入っていかなければならないということが主張されていました。労働者、農民、兵士たちのために書くということを理解してこそ、作家は本当の意味で大衆のなかに統合されるとしたのです。

 プラムディヤはこの議論にある程度納得しているように思われます。三か月後に発表されたエッセイで彼は作家は人々とともに生きるべきであり、そのためにも産業の労働者として直接その中に参加するべきだと述べ、丁玲の主張を繰り返しています。1956年10月までのプラムディヤの著作物を見るかぎりでは、プラムディヤはオランダ語や英語などの翻訳を通じて中国の作品を幅広く読んでおり、主要な中国の作家たち*4について詳しく知っていたことがうかがえます。1956年7月のエッセイでもプラムディヤは、中華人民共和国の政府が文化や教育を推進しようとしている姿勢に称賛の声を寄せています。プラムディヤは、中国でもっとも優れた著名な作家として茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)や魯迅(Lu Xun/ルー・シュン)の二人の名前を挙げ、社会的責任に意識的な新しい世代の作家であったことをその理由として述べていました。1956年の半ばまでにプラムディヤは魯迅の小説「狂人日記」の翻訳をある程度まで終えていたようです。

 1956年はプラムディヤにとって大きな岐路となりました。故国の惨憺たる現状を認識して、インドネシアの変革が失敗に終わったことが確信に変わり、意気消沈してしまっていました。「普遍的ヒューマニズム」はインドネシアが直面する膨大な社会的・政治的問題に対してまったく無力であることが明らかとなり、インドネシアの作家たちの貧しい経済状況と組織の欠落に深い失望を抱いていました。そんな中でプラムディヤは、より大きな社会的認識、知識人のより活発な役割を望むようになっていきました。

 プラムディヤは共産主義への不信もあって左派的な芸術家たちが作っていた組織に参加することを避けてきており、1956年の段階では孤立して新しい方向性を探っていました。そのうえ1953年にオランダに滞在した際の「西洋的な文化がインドネシアの問題を解決する糸口にはならない」という幻滅感も手伝って、インドネシアの何が間違っているのかということについてのプラムディヤの文芸の方向性や政治的イデオロギーの(再)構築において、中国(中華人民共和国)がその参照点としてメタフォリカルな地位を占めるようになっていました。中国の作品の翻訳に力を入れていたことからも、彼が中国の文化的実践に強く関心を持っていたことが分かります。実際、彼は、自身の文化的態度と中国共産党の文芸の方針が合致していたことを認識していようです。両方ともが大衆の運命について強い関心を寄せていることに共通点がありましたが、一方でプラムディヤにとっては、それは未分化の「小さな人々」として社会的に表象される存在であるのに対し、中国の作家たちにとってはそれは労働者階級、すなわち農民や労働者や兵士たちのことを指していました。

③につづく

*1:アジア・アフリカ会議とも呼ばれる。アフリカから6か国、アジアから23か国が参加して開催された国際会議。冷戦が本格化するなかで米ソどちらの陣営からも影響を排した非同盟国首脳会議で、平和十原則と呼ばれる国連の尊重や軍縮民族自決を基調とした文書を採択しました。スカルノの強いリーダーシップのもと行われたことによりインドネシアの威信を高めるとともに、この会議で確認された内容がその後の非同盟主義運動に道筋をつけることになりました。

*2:丁玲は1904年生、1986年没の駐豪の女流作家。1930年に結成された左翼作家連盟に参加し、のちに中国共産党に入党。中国では最も著名な作家のひとりである。

*3:タイトルは「Hidup dan Penulisan Kreatif」で、プラムディヤはおそらく英語から翻訳されたものとみられ、それを考えるともとのタイトルは「Life and Creative Writng」となります。

*4:例えば丁玲、郭沫若、茅盾など、中華人民共和国の作家たちでした。