映画を見ました

filmarks.com

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑦

1958年の中国訪問中、プラムディヤの個人的な人生においても、中国への認識に光をあてるような出来事がありました。Bahrum Rangkutiによるプラムディヤの伝記によれば、どうも中国での通訳の女性と恋愛関係にあったのではないかということが言われています。…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑥

プラムディヤは、1958年にふたたび中国へと渡りました。この時には彼は、1956年の初めての中国訪問時に比べても「新しいプラムディヤ」とでも言えるほどに文化的・政治的な思想を変化させていました。中国もまた、「大躍進」政策と「人民公社」運動によって…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑤

北京での会議のあと、プラムディヤは上海、南京そして広東を立て続けに訪れました。彼はインドネシアの記者に対して、ヨーロッパでの経験に比べると中国の人々とはより友好的な接触を持つことができたこと、そして中国での滞在経験を喜ばしく感じていること…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国④

プラムディヤは1956年の10月中ごろに北京にむけて出発しましたが、その時の彼の心境は、中国そのものに対する理解を深めたいというよりは、むしろインドネシアの現実についての思索を深める機会が中国にあるのではないかと期待してその意味で価値あるものに…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国③

さて、①と②では、1950年代の前半にプラムディヤが中国の左派的な作家たちをその著作物を通じてどのように受容していたのかを中心に書いてきました。今回は満を持してプラムディヤが直接中国に乗り込んだ際のことについて書いていきます。 1956年10月、プラム…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国②

1955年のバンドゥン会議*1の際、プラムディヤは中国の代表団と大使に接触を持ちました。それ自体、中国への関心が増していた表れでした。1956年のはじめ、プラムディヤは丁玲*2(ティン・リン/Ding Ling)の長い論文を翻訳しています。この論文は「生活と文…

プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国①

プラムディヤ・アナンタ・トゥールという人物はインドネシアでは非常に有名な人物です。ノーベル文学賞にもっとも近いインドネシア人としてしばしば名前が挙がってきた人物であり、インドネシア文学を代表する作家といっても決して大げさではありません。一…

8月15日・軍歌

私がインドネシア、ジョクジャカルタに滞在していることは前までの記事でも書きました。ジョクジャカルタでは、一家で営んでいるゲストハウスのようなところの一室で、月単位でお金を払って滞在しています。ここのオーナーの一家はとにかく子沢山。夫婦には…

インドネシアにとっての「インターナショナル」

日本では「外国人」というと、どんな人がイメージされることが多いでしょうか。金髪碧眼の白人?それとも荷物をたくさん持った、せわしないアジア系の人でしょうか?あるいはもっと具体的に「○○人」という姿かもしれません。最近の日本のテレビでは、海外出…

インドネシアの洗濯物事情

なかなか、ブログを続けるのは難しい…。なにかテーマをひねり出しつつ、「やめないこと」だけを目標にした意識の低さでやっていきます。 さて、わたしはいま、インドネシアにおります。なぜインドネシアにいるのっていう話をすると長くなるので、とりあえず…

ブログをどう使うかは考え中

なにかのきっかけとして軽い気持ちで始めたブログですが、トピックを決めてできるだけ頻繁に更新していった方が良いんでしょうが、まったくそんなことを継続する自信はありません。Twitterですら毎日ツイートなんてしてないのに。 ただ、いまはまだ作ったと…

軽い気持ちでブログを始める

私は人文社会科学系の大学院生です。 院生、つまり研究者のたまごであるにもかかわらず、私は目の前に自分を動かしてくれるものがなければ手が動かないタイプの、端的に言って研究者に向いていない人間です。 そういった自己認識にもとづいて、私が私の学び…