プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑤

 北京での会議のあと、プラムディヤは上海、南京そして広東を立て続けに訪れました。彼はインドネシアの記者に対して、ヨーロッパでの経験に比べると中国の人々とはより友好的な接触を持つことができたこと、そして中国での滞在経験を喜ばしく感じていることを伝えていました。中国でプラムディヤは他にもいくつかの会合に参加し、周揚、茅盾を始めとして巴人*1、揚朔、劉白羽、劉知侠、郭小川、李鋭*2など中国文学界の錚々たる面々と会いました。これらの会合はすべて和やかな雰囲気のなかで行われ*3、プラムディヤと作家たちのコミュニケーションがつつがなく行われるようにその手段も万全に確保されていました。
 こういった会合で、プラムディヤと中国の知識人との間で特に意見交換が行われたのは主に二つ点でした。一つ目は、もともとはソ連から導入され、毛沢東や文化の分野の理論家によって中国独自にローカル化された「社会主義リアリズム」と呼ばれる文学のアジェンダについてでした*4。このアジェンダの中心となっている考え方は、芸術作品は社会的現実と人々の生活を反映するべきであるという信念でした。また中国の作家たちは「芸術は芸術の目的のためのものである」考え方が誤っていると暴くことに多くの時間を費やしていました。二つ目の論点は、「芸術は人民に奉仕するべきである」という、1942年に毛沢東の「文芸講和」*5によって始めて体系的に述べられたテーゼでした。すでに述べた通り、プラムディヤはこういった考え方にある程度共感を示していましたが、もう一方の考え方(貴族主義的な芸術観)との間で相反する曖昧な態度をとっていました。「社会主義リアリズム」と「人民に奉仕する芸術」の中国における提唱者たちとの議論を通して、プラムディヤはこうした方針に対する好意的な評価と理解を深めたようでした。
 プラムディヤのはじめての中国滞在の印象はまさに圧倒的なものでした。彼は中国の急速な社会と経済の"前進"に惹きつけられ、またそれが中国の「歴史に残るような」人々によって可能になったということを強く感じていました。プラムディヤは中国で感じたことについてこう言っています。「中国の人々にとって重要なことは、お金でもなく、利益でも損でもない。誠実さと、自覚、そして労働だった。」
 彼は「ロマン主義プラグマティズム」の精神を同時に持ち、個人の利益のためではなく、民族や社会の関心に沿って働く中国の人々に驚嘆したようでした。プラムディヤは中国のことを「今まさに作られつつある伝説」と評し、中国の革命を単なる部分的改良ではなく「全体におよぶ根本的な変化」であるとまで表現しました。1950年代に中国を訪れたほかの多くのインドネシア人と同様、プラムディヤも中国について自国と対比的に好意的なイメージを持ったのでした。
インドネシアでは人々は己のことだけを考えて行動する。あちら(中国)ではみんなが他者のことを考える。こちらでは生き延びるために人々が強欲になり、あちらでは欲望の本能は放棄され、根絶されていた。」
(1957年1月のMimbar Indonesia誌“Sedikit tentang Pengarang Tiongkok”(「中国の作家についての小論」)より)
 作家であることもあり、プラムディヤは中国における知識人と社会との関わりに特に関心を寄せていました。すでに述べましたが、この「知識人と社会」は彼が取り組もうとしている中心的な課題でもありました。中国での実践が彼に与えた示唆は単にインドネシアのどこが問題かという参照項としてのものだけでなく、実現可能なモデルを提供したのでした。中国に対するプラムディヤの好意的な評価の一つが、作家や芸術家の社会的・政治的地位が非常に高いことがありました。
「中国の作家たちは高い地位を占めている。彼らの意見は社会にきちんと耳を傾けられるのだ。政治家とともに彼らは精神的なリーダーであり、現代の国家建設において非常に重要な役割をはたしている。だからこそ社会において彼らは注意深く扱われるのだ。」
(同上)
 プラムディヤは、中国の作家の高い社会的地位と出版物から受けとる惜しみない経済的報酬は一つの指標だとみなしていました。
「作家として私の関心を強く引いた事実の一つに、新しい中国では作家の生活保障がされていることだった。あちらでは、作家は人間らしいくらしを自分のペンによって成り立たせることができる。」
(同上)
 プラムディヤは劉之侠の例を挙げてこれをさらに補強しています。劉知侠は小説「铁道游击队(鉄道遊撃隊)」を出版したことで、40万元の報酬を受けました。この額は中国の省庁における大臣の月給の240倍であり、言い換えれば劉は一つの小説によって大臣並みの生活を20年続けることができるのだとプラムディヤは強調します。こういった作家たちに対する物質的な見返りは、「最高の権威によって中国では文化が援助されている」ことの一例なのだと主張しました。
 中国の作家がうらやむほどの社会的地位を持っていることについてのプラムディヤの熱心な描写の背景には、インドネシアで彼の理想を実現するうえで実際に中国の実践が役立つのではないかという期待があったようです。1956年以前にも、プラムディヤはインドネシアの作家たちが作品から得ることができる経済的な見返りの少なさについて繰り返し不満を述べていました。作家たちにより敬意が払われるよう、また彼らのクリエイティブな地位に見合った見返りが得られるように求めてきていました。しかしその一方で、中国における実践は、プラムディヤに知識人の社会的・政治的地位の高さは彼らが民族や国に貢献していることと不可分であることを示したのでした。彼は中国の作家たちの高いレスポンシビリティは、彼らが中国の政治的変革に関与してきたことの直接的な結果であると見ていたのです。プラムディヤは中国の作家たちがきちんと社会の現実について理解することによって人々の模範となっており、自己中心的な関心に左右されていないことを強く感じていたのです。逆を言えば、すなわち知識人はまず社会的・政治的プロセスに活発に参加しなければ、その地位を高めることはできないのだ、と。傍観者的な立場は社会における作家の立場を危うくすると考えたのです。
 中国への旅行は、国家を建設するプロセスに作家が関わるために、にいかに作家たちを組織するかという問題への大きな示唆をプラムディヤに与えました。中国に行く前にも、プラムディヤはインドネシアで作家たちが退廃的な社会の雰囲気に対抗するために組織を作る必要があることを提言していました。しかし一方で彼は有効な組織が存在しないことについて失望感を抱えており、そのような状況こそがインドネシアの知識人が直面している困難であるとも考えていました。中国での文化政策に関わる要人との会合は概して彼にそういった問題について大きな示唆を与えましたが、特に作家連合の議長である茅盾との議論は、プラムディヤに具体的な例を示すことになりました。インドネシアに帰国してすぐ、彼は作家連合(Serikat Pengarang)の有用さについてのエッセイを書いています。彼はこういった作家の組織の五つの機能と、またそれがどのようにその所定の目標を達成することができるのかということをエッセイの中で述べました。それらの機能は「生活経験を踏まえて作家たちを参画へと組織すること」から「先進的な国々と文化交流をすること」までに様々に及んでいます。プラムディヤの中国の作家たちが高度に社会に統合されていることへの称賛は、これら作家たちの作品にたいする好意的な評価と結びついています。すでに何度も述べた通り、プラムディヤはこれまで相反する二つの芸術に対する見方――「芸術の目的のための芸術」と「人々のための芸術」――を持っていたわけですが、1956年の終わりにはプラムディヤは後者に大きく傾斜していたということでした。プラムディヤはこう書いています。
国際的な文学の立場から見れば、中国の文芸は形式主義的なものである。しかしながら中国の現在の状況から見るなら、そこに大きく批判する余地はないのだ。なぜなら中国は今まさに大衆の大きな構築のさなかにあるのだから; 作家たちは金銭のためではなく、大衆の教化のために作品を書くのである。
(1956年11月Hsin Pao誌)
 
⑥へつづく

*1:本名を王任叙といい、作家、批評家、翻訳家として中国で知られています。また、のちに中国の在インドネシア大使となり、魯迅全集や茅盾全集、郭沫若全集などを出版している人民文学出版社の編集者ともなりました。

*2:この人物は二年後に毛沢東の個人秘書にもまりました。

*3:たとえば巴人宅での会合では夕食のあともほかの予定より優先させて熱心に議論を続けたそうです。

*4:魯迅は「社会主義リアリズムの偉大な開拓者であり、その代表者」であるとして中国では称えられていました。

*5:1942年に延安で開かれた作家や芸術家たちによる座談会(延安文艺座谈会)の内容がまとめられたもの。