プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国⑥

 プラムディヤは、1958年にふたたび中国へと渡りました。この時には彼は、1956年の初めての中国訪問時に比べても「新しいプラムディヤ」とでも言えるほどに文化的・政治的な思想を変化させていました。中国もまた、「大躍進」政策と「人民公社」運動によってその情景と人々の雰囲気を変化させつつありました。結果としてプラムディヤは、新しい中国を新しい政治的・文化的な立場から観察することになったわけです。そして彼にとって中国はいまだにインスピレーションの源泉であり、彼はこの二回目の中国訪問によって自分の文化的ラディカリズムをより一層加速させていくことになるのでした。
 二回目の訪問は、ソ連タシケントで行われたアジア・アフリカ作家会議と連動したものでした。プラムディヤはインドネシアの代表団の代表としてこれに参加していましたが、会議が終わったあとに中国を経由してインドネシアへと帰国したのでした。この帰路はおよそ一か月にも及ぶもので、北京をはじめ、武漢成都昆明などを歴訪しました。この時には中国当局はもはやプラムディヤのことを「無計画で失望感を抱えたプチ・ブル的な作家」とはもはや見ていませんでした。むしろ彼のことを、中道派の「空想的な陣営」から抜け出し、「民族と民主主義の戦線」に新たに加わった代表的な人物とすら評価していました。プラムディヤが中国に到着したとき、中国の作家連盟が主催してこのインドネシアからのゲストを歓迎する会が開かれたのですが、この会では三つの中心的なテーマが議論に上りました。一つめは、「アメリカ帝国主義は張子の虎」であり、人々が団結してこれに立ち向かえば打ち負かすことができるということ。二つめは大規模に経済発展しつつある中国の経験と到達が与えている影響について。三つめとしては、文化的な領域においても「政治こそが司令官」であるという原則が改めて強調されたことでした。中国の作家や公人との会合ではこれ以外にも議論が交わされたようでした。たとえば周揚はほかにも中国の要人たちが「作家は毛沢東の路線を引き継がなければならない」ということを主張する中で、「革命的ロマン主義」について語っていました。1956年と比べても、1958年はより「政治化」して雰囲気が中国の文化人たちを支配していました。プラムディヤは表面的にはこれらのトピックについて真剣に受け止め、また大筋としてはこういった議論に賛同していたようです。
 1958年までの時点で、プラムディヤはもはや距離を置いた傍観者ではなく、積極的な参加者となっていました。1956年の時点ではプラムディヤは芸術や知識人が社会で果たすべき役割についてアンビバレントな態度をとっており、中国を見た印象も驚きと羨望に彩られたものでした。それに対して二回目の訪問では、プラムディヤはより突っ込んだ政治的意味合いにおいて好意的な見方をしており、また種々の問題についても率直に政治的意見を述べるようになっていました。言ってしまえば彼にとっての中国もはや文化的なシンボルというより、政治的なシンボルとして受け止められていたのです。彼は中国の作家たちの「人間の精神の巧みな遂行者」としての役割について称賛を続けていましたが、むしろ中国の政治的状況とその影響についてより強く共感していたのは、西欧の様々な影響、とくに植民地主義帝国主義の問題についてでした。彼は、その中心を北京におく植民地主義帝国主義に対抗するための統一戦線の設立を望んでいました。プラムディヤのアートと社会の関係についての考え方はもはや曖昧なものではなく、はっきりとアートが人々に対して責任があることを認識していたのです。この責任とはすなわち、ただ社会的な意識を体現するだけでなく、作家はその前線で闘わなければならないということでした。こうしてプラムディヤの二回目の中国滞在は、彼の中国人民への期待を強めるとともに、中国からより一層学び取らなければならないことを確信にしたのでした。1959年末にプラムディヤはこう書いています。
 率直に私は、不屈で、巧みで、勤勉で、誠実で、そして革命的な中国人民の様子に敬服している。ブルジョワでないインドネシアの人民は中国から大きく学びを得ることができる。特に国家建設の点からいえば、これまでの歴史ではこんなにも短い期間に巨大な規模の国家が作られたことなどないのだから。このような革命は地球全体と人類を変えようとしているのだ!そしてこれこそが中華人民共和国なのだ。
(1960年のジャカルタBintang Press紙“Hoa Kiau di Indonesia”(インドネシアの華僑)より)
 実際に社会や政治の変革に関与していく中国の作家たちの具体的な実例として、プラムディヤは「製鉄」のプロセスに注目しました。すでにのべた通り、当時の中国は集団的・ユートピア的な夢想であり、全国的な楽観主義でもあった「大躍進」政策のさなかであり、1959年内に300万トンの鉄を生産することを必達の目標としていました。これは「イギリスを超え、アメリカに追いつく」ことを産業の領域における目標としたための数字でした。「裏庭の溶鉱炉」とでもいうような原始的な方法による製鉄の励行策には例外なく知識人も大規模に参加することになったのでした。プラムディヤはこれについても熱心に注目し、北京に到着した三日後にこう述べています。「製鉄はインドネシアにとっても喫緊の課題だ。私自身もかつてインドネシア政府に製鉄・製鋼をもっと広げるべきだと提案したことがあった。それもあって、急に言ったことではあったが、私も製鉄の作業に参加させて欲しいと申し出た。将来的にはインドネシアにもこの新しい経験を広げることになるかもしれないと思ってのことだった。*1」プラムディヤは、単なる身振りとかリップサービスとしてというより、本気でこれに注目していたらしく、参加した製鉄作業の詳細な手順をメモに残しています。彼のこういった参加は、幅広い象徴的な意味あいを持っています。すなわち、孤立と幻滅の局面を乗り越え、ペンのみによってではなくむしろ直接参加することによって社会を変革していく方法についてまともに考えて実行しようとしていたと見ることも出来るように思われます。
 
⑦へつづく

*1:1958年の「人民文化」より。なおプラムディヤはこの二回目のの中国訪問中、製鉄の作業に二回参加しました。