プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国④

 プラムディヤは1956年の10月中ごろに北京にむけて出発しましたが、その時の彼の心境は、中国そのものに対する理解を深めたいというよりは、むしろインドネシアの現実についての思索を深める機会が中国にあるのではないかと期待してその意味で価値あるものにしたいと思っていたようです。のちに彼はこう振り返っています。
外国を訪れた時、私は2つのことに特に注目するようにしている。先進国と呼ばれる国へ行った場合には何の疑問も浮かばない。しかし新しい、若い国に行った場合には、私はそこから学びを得なければならない。なぜならそこには、その国とそこに住む人々の命運をより良いものにするためにどうすればよいのかという点で必ず共通性が見られるからだ。中国はこういった新しい国のひとつである。もし私が中華人民共和国に影響されるとしたら、それは中国がすでに自身を確立させた新しい国だからである。インドネシアもまた新しい国である。新しい国同士には、必ずある類似がみられるはずだ。よい例として学ぶべきものもそこにはあるだろう。実際、その時中華人民共和国を見た限りでは、インドネシアよりずっと成功しているように思われた。
(元の文章のChinaを中国、PRCを中華人民共和国とした)
 プラムディヤの中国での最初の活動は、魯迅の死後20年追悼集会に参加することであった。この集会は広く宣伝されて、20か国以上の国々から作家が出席しており、新しく独立した諸国の知識人たちに魯迅についてアピールする機会となったようです。郭沫若や茅盾はこのとき、それぞれの基調講演で魯迅の偉大さがその革命的な思想と人々への献身に由来するものだということを強調しました。とくに郭沫若は、出席した国外からの参加者に対して中国の知識人がほかの国の文化労働者の期待に応える用意があることを受けあったわけです。中国の新しい文化が世界の文化に大きく貢献するし、中国は新たな魯迅を次々に生み出していくのだ、というわけでした。国外からの出席者のひとりとしてプラムディヤもこの集会で発言の機会があり、その中で彼は魯迅について、社会に対する鋭い洞察のみならず、より重要なこととしては大衆の命運を良くしていくために闘う意思と能力を持っていることをもっていた、と称えました。「魯迅は彼の国、そして彼の人民の声そのものであった。人類の高邁な希望に満ちたモラルの目覚めを体現していたのだ。彼は単に希望だったということにとどまらず、最善のそして最適の手段――すなわち文学――をもって、その理想を実現しようと努めたのだ。」こうプラムディヤは続けました。この魯迅の理解は、プラムディヤのインドネシアの知識人に対する強い思いを再び燃え上がらせることになりました。
すべての作家が責任を負っている。そしてそれは、その選択するべきものとしての責任である。魯迅は困難と困窮に苦しむ人々の側にたつことを選んだ・・・彼は選択したのみならず、彼の理想を確かなものとするために闘った。彼は思想の上でもリアリストだったし、行動の上でもリアリストだったのだ。
 この思想と行動を結び付けた考え方は、インドネシアの文化や社会の問題を解決するより効果的な方法を熱心に探究してきたプラムディヤに、もっとも現実の問題に密接の関わるモデルを与えることになりました。そして中国語の公式な注釈を踏まえた魯迅の作品は、明らかにプラムディヤの物の見方に大きな影響を与えました。中国から帰国したあとも、プラムディヤは魯迅のことを偉大な知識人としてだけではなく、「中国の社会主義リアリズムの父」として認識していたのでした。
 
⑤につづく