プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国②

 1955年のバンドゥン会議*1の際、プラムディヤは中国の代表団と大使に接触を持ちました。それ自体、中国への関心が増していた表れでした。1956年のはじめ、プラムディヤは丁玲*2(ティン・リン/Ding Ling)の長い論文を翻訳しています。この論文は「生活と文芸」*3と題され、文化系の雑誌に掲載されました。丁玲の中心的な思想は、具体的な生活経験のなかからのみ良い文芸作品や芸術作品が生まれてくるとするもので、価値ある作品を作り出そうとするのなら、作家は人々の生活と生のなかに入っていかなければならないということが主張されていました。労働者、農民、兵士たちのために書くということを理解してこそ、作家は本当の意味で大衆のなかに統合されるとしたのです。

 プラムディヤはこの議論にある程度納得しているように思われます。三か月後に発表されたエッセイで彼は作家は人々とともに生きるべきであり、そのためにも産業の労働者として直接その中に参加するべきだと述べ、丁玲の主張を繰り返しています。1956年10月までのプラムディヤの著作物を見るかぎりでは、プラムディヤはオランダ語や英語などの翻訳を通じて中国の作品を幅広く読んでおり、主要な中国の作家たち*4について詳しく知っていたことがうかがえます。1956年7月のエッセイでもプラムディヤは、中華人民共和国の政府が文化や教育を推進しようとしている姿勢に称賛の声を寄せています。プラムディヤは、中国でもっとも優れた著名な作家として茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)や魯迅(Lu Xun/ルー・シュン)の二人の名前を挙げ、社会的責任に意識的な新しい世代の作家であったことをその理由として述べていました。1956年の半ばまでにプラムディヤは魯迅の小説「狂人日記」の翻訳をある程度まで終えていたようです。

 1956年はプラムディヤにとって大きな岐路となりました。故国の惨憺たる現状を認識して、インドネシアの変革が失敗に終わったことが確信に変わり、意気消沈してしまっていました。「普遍的ヒューマニズム」はインドネシアが直面する膨大な社会的・政治的問題に対してまったく無力であることが明らかとなり、インドネシアの作家たちの貧しい経済状況と組織の欠落に深い失望を抱いていました。そんな中でプラムディヤは、より大きな社会的認識、知識人のより活発な役割を望むようになっていきました。

 プラムディヤは共産主義への不信もあって左派的な芸術家たちが作っていた組織に参加することを避けてきており、1956年の段階では孤立して新しい方向性を探っていました。そのうえ1953年にオランダに滞在した際の「西洋的な文化がインドネシアの問題を解決する糸口にはならない」という幻滅感も手伝って、インドネシアの何が間違っているのかということについてのプラムディヤの文芸の方向性や政治的イデオロギーの(再)構築において、中国(中華人民共和国)がその参照点としてメタフォリカルな地位を占めるようになっていました。中国の作品の翻訳に力を入れていたことからも、彼が中国の文化的実践に強く関心を持っていたことが分かります。実際、彼は、自身の文化的態度と中国共産党の文芸の方針が合致していたことを認識していようです。両方ともが大衆の運命について強い関心を寄せていることに共通点がありましたが、一方でプラムディヤにとっては、それは未分化の「小さな人々」として社会的に表象される存在であるのに対し、中国の作家たちにとってはそれは労働者階級、すなわち農民や労働者や兵士たちのことを指していました。

③につづく

*1:アジア・アフリカ会議とも呼ばれる。アフリカから6か国、アジアから23か国が参加して開催された国際会議。冷戦が本格化するなかで米ソどちらの陣営からも影響を排した非同盟国首脳会議で、平和十原則と呼ばれる国連の尊重や軍縮民族自決を基調とした文書を採択しました。スカルノの強いリーダーシップのもと行われたことによりインドネシアの威信を高めるとともに、この会議で確認された内容がその後の非同盟主義運動に道筋をつけることになりました。

*2:丁玲は1904年生、1986年没の駐豪の女流作家。1930年に結成された左翼作家連盟に参加し、のちに中国共産党に入党。中国では最も著名な作家のひとりである。

*3:タイトルは「Hidup dan Penulisan Kreatif」で、プラムディヤはおそらく英語から翻訳されたものとみられ、それを考えるともとのタイトルは「Life and Creative Writng」となります。

*4:例えば丁玲、郭沫若、茅盾など、中華人民共和国の作家たちでした。