プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国③

 さて、①と②では、1950年代の前半にプラムディヤが中国の左派的な作家たちをその著作物を通じてどのように受容していたのかを中心に書いてきました。今回は満を持してプラムディヤが直接中国に乗り込んだ際のことについて書いていきます。

 1956年10月、プラムディヤは1か月におよぶ中国滞在に旅立ったのですが、それは中国で政治的にも文化的にも大きな影響力を持っていた3人の作家から招待を受けてのことでした。この3人とは、中国文学芸術界聯合会の首席で中国科学院の院長でもあった郭沫若(Guo Moruo/グオ・モールオ)中華人民共和国文化部部長であり、中国作家協会の首席でもあった茅盾(Mao Dun/マオ・ドゥン)*1、そして中国人民対外文化協会の会長であり中国の文化外交政策で大きな影響力をもっていた楚図南(Chu Tunan/チュ・トゥナン)でした。プラムディヤは魯迅の死後20年の追悼集会に出席し、その後中国のいくつかの都市を訪問しました。

 いったいなぜプラムディヤはこんな重要人物たちから中国へ招待されたのでしょう?

 もちろんプラムディヤはインドネシアで最も知られた作家のひとりでしたが、政治的・文化的な立ち位置からいっても決して共産党の支持者というわけではありませんでした。実際、彼の初期の小説のなかには共産主義者たちのテロに対する否定的な描写が出てきており、そうしたことが原因となってインドネシア共産党の一部のメンバーとは関係が悪くなっていました。

 ジャカルタの中国大使館によって収集された資料を含む公式の内部文書によれば、1950年代半ばのプラムディヤは、詩人であり雑誌編集者でもあったリヴァイ・アピン*2や作家のウトゥイ・タタン・ソンタニ*3などとともに「プチ・ブルジョワ的中道派」と位置付けられていました。これはすなわち「右派」ではなく、かといってLEKRAに所属しているような「左派」の作家でもないという意味で、インドネシアの知識人の大きな部分を占めているとして中国の対外文化連絡委員会の1962年の内部文書では以下のようにその特徴が説明されてたようです;

 彼らの不満は目的が定まらないことにあった。彼らは、帝国主義者たちと運命を共にするつもりではないが、その一方で人民の闘争に加わる勇気を持たず、インドネシアの革命の理念を共にすることができないでいる。彼らは資本家の体制の弱さや腐敗による現実に満足しているわけでなく、現状を変えたいと望んでいる。しかしながら彼らは、民族革命の困難で先延ばしされた性質についてはっきりと自覚していないか、あるいはこの革命に対して十分な信頼を寄せていない。結果として、彼らは現在の社会的・政治的秩序に対して厳しく、また急進的な感情を持っている。

(対外文化連絡委員会によって1962年に作られた「印度尼西亚文化概况」より)

 おそらく、プラムディヤが招待された背景には二つの理由があるものと思われます。

 第一に、外国の中道・右派の立場をとる知識人を中国に招待するという中国の文化外交政策の方針が挙げられます。この政策の背後には、これらの知識人に中国の進歩的な側面を見せて中国に対して好意的な見方をするよう誘導し、本国での対中感情に大きな影響を与えようとする意図があったものと見られます。1954年から1960年まで駐インドネシア大使を務めた黄鎮(Huang Zhen)はその在職期間、盛んにこの文化外交政策を実現するよう働きかけを行っていたようです。

  第二の理由はもう少し複雑で、インドネシア国内の文脈を踏まえなければなりません。1950年代半ばまでの間、インドネシア国内ではLEKRAという左派的な芸術家団体の拡張に伴って、文化的な領域における政治対立が強まりつつありました。LEKRAは1950年にインドネシア共産党に密接な関係を持って設立されたとする団体で、「人民のための芸術」*4を提唱して盛んにその領域を拡張しようとしていました。プラムディヤに対しても、左派的な文化運動に対して支持や共感を得るために働きかけを行っていたようでした。LEKRAが中国大使館にプラムディヤを中国に招待してはどうかと働きかけたとされる資料もあるようで、それもあって駐インドネシア大使館が北京の当局に推薦を出したとする推測もあるようです。

④につづく

*1:茅盾は、公人としては沈雁氷の名を使っていました。

*2:一応簡単な紹介はこちら:http://idwriters.com/writers/rivai-apin/ 

*3:インドネシア語でない紹介だと英語Wikiしか見当たらず:https://en.wikipedia.org/wiki/Utuy_Tatang_Sontani

*4:”Seni untuk Rakyat”