プラムディヤ・アナンタ・トゥールと中国①

 プラムディヤ・アナンタ・トゥールという人物はインドネシアでは非常に有名な人物です。ノーベル文学賞にもっとも近いインドネシア人としてしばしば名前が挙がってきた人物であり、インドネシア文学を代表する作家といっても決して大げさではありません。一方でプラムディヤは、いわゆる「9.30事件」の際にインドネシア共産党との関係を問われて拘束され、”収容所島”として知られるブル島*1に抑留され、その作品も共産主義的な思想を反映してものであるとして発禁となり所持や販売が違法となりました。そうしますと、彼が通常の著作活動ができたのは1940年代から1960年代前半までのそう長くない時期になるわけですが、この時期に彼が何を考え、どのようなことをしてきたのかについては中国で起きた革命や文学運動が影響を及ぼしたようです。これについて整理すべく、いろいろ勉強しているところであり、その一部についてまとめていきます。

 なお、この記事はコーネル大学出版の発行する雑誌「Indonesia」に1996年4月に掲載されたHong Liuの"Pramoedya Ananta Toer and China: The Transformation of a Cultural Intellectual"に大きく依拠しています。

 

 プラムディヤが初めて中国の情勢に接するようになったのは、1940年代にさかのぼります。プラムディヤは日本軍による占領支配期、同盟通信社という日本の通信社で働いており、その時期にアダム・マリク*2に働きかけを受けて日中戦争について取り上げたことがあるようです。中国の情勢については、オランダとの激しい独立戦争期においても、インドネシアの「革命的な」新聞を通じて伝わってきていたようです。その当時のエピソードとして、プラムディヤは自身が独立運動のさなか投獄されたときのことを回想しています。プラムディヤは収容所で、死刑判決を受けたあるオランダ人の受刑者と話す機会があったようです。彼はプラムディヤにこう語りました。

「俺はまだ生き延びられるんじゃないかとほんの少し思ってるんだ。中国の赤軍が南の方まで進軍してきさえすれば、救われるんじゃないかって」(”I still have a glimmer of hope; if the Chinese Red Army advences southward, I will be seved. ”)

 このことは、中国での革命がオランダ人にさえ無視できない影響を与えていることをプラムディヤに印象付けたのでした。

 

 1950年代前半に入ると、プラムディヤはもっと具体的な中国の文化的実践に注意を向けるようになっていきました。彼は1952年に"Kesusteraan sebagai Alat"すなわち「道具としての文学」というエッセイを書いています。この中でプラムディヤは、毛沢東の文学に対するスタンスを紹介しています。そのスタンスというのは、アートや文学は人民がその目的を実現するための道具として存在し、人民に奉仕するものであるというものでした。ただ、プラムディヤはそのスタンスに全面的に賛同していたというよりも、それまで一般的であった文学や芸術に対する理解との対比関係に注目して紹介していたのでした。アートはそれを理解できる者のために存在する、という「貴族主義的なスタンス」がそれまでの芸術や文学への理解として一般的だったのに対し、新しい主張と実践が出てきたことに対してプラムディヤは注目していたのでした。

 プラムディヤはこの両者の特徴について、「貴族主義的なスタンス」は創造的な整合性を守ることができる一方、「毛沢東的スタンス」は社会的な団結を危うくするような退廃的な創作を社会から一掃する力があると考えていました。このエッセイのさらに2年後の1954年、プラムディヤは中国文芸の権威、周揚*3(チョウ・ヤン/Zhou Yang)の「社会主義リアリズム――中国文学の前進への道」という論説を翻訳しています。この論説では、中国文学は民族主義的な性格をそなえ、またあらゆる進歩的な影響を受け入れるべきであるという趣旨のことが論じられていました。また、周揚は社会主義リアリズムの原則ともいうべきものについて詳しく述べるとともに、実際の生活を文学のなかで描写するうえで「階級的視点」を持つことの重要性を強調していました。

 1950年代半ばまでにプラムディヤは、革命後の中国のような社会主義国において作家が高い社会的地位を認めらていることに気づき、またそのような状況をある程度積極的に評価するようになっていきました。文学が政治的・経済的な影響力を持つものであると認められており、それに対応して作家がその出版物に対するきちんとした報酬を得ている中国のような例が、プラムディヤにはインドネシアとのあからさまな対比に映ったのでした。

*1:スラウェシ島から東に約500キロ、バンダ海に位置する島。「9.30事件」で逮捕された“政治犯”たちが抑留され、過酷な生活を強いられた島として知られています。プラムディヤはここに1979年まで拘留され、その間に書き上げた作品は「ブル島4部作」として知られています。

*2:アダム・マリクとは、民族主義活動家、政治家であり、1937年にインドネシアで初めての独立通信社を設立したジャーナリストとしても知られる人物です。独立宣言そのものにも深くかかわるとともに、独立後のインドネシアでは、スカルノ時代とスハルト時代の両方の時代を通じてその影響力を維持した稀な政治家でした。

*3:https://kotobank.jp/word/%E5%91%A8%E6%8F%9A-77459

8月15日・軍歌

 私がインドネシアジョクジャカルタに滞在していることは前までの記事でも書きました。ジョクジャカルタでは、一家で営んでいるゲストハウスのようなところの一室で、月単位でお金を払って滞在しています。ここのオーナーの一家はとにかく子沢山。夫婦には八人の子どもがいて、さらにお祖父さんお祖母さんも一緒に暮らしています。普段から人の気配が絶えることのない家で、顔を合わせるとみんな話しかけてくれます。そんな一家の大黒柱のお父さんが、昨日誕生日でした。偶然、ほかの滞在客がいない夜だったのもあって、家族の好意に甘えて私もその誕生日パーティーにちょっとだけ参加させてもらいました。私はインドネシア語がカタコトですし、向こうは英語がカタコト。必然的にカタコト同士の言語ちゃんぽんな会話になります。そういう場でだいたいコミュニケーションのツールになるのが歌や楽器などの音楽だったりします。経験的にそういうことを知っていたのか、そのまなざしに知的な印象を強く受けるお祖父さんが、自分の知っている日本の歌をふたつ歌ってくれました。ひとつめはやっぱり「sukiyaki」。坂本九の「上を向いて歩こう」です。悲しい歌だったのは知らなかったようですが、やっぱりインドネシアでも有名なようです。そして、ふたつめに歌ってくれた曲は、私自身が詳しくないので歌詞はうまく聞き取れなかったのですが、どうも日本の軍歌のような感じ。お祖父さんは、さらにそのお父さんから教わったんだと言っていました。オーナーの夫婦は「私たちのお祖父さんは兵隊だったんだ」とも。では、なぜインドネシアの兵隊が日本の軍歌を歌えたのか、そしてお祖父さんが知っているたったふたつの日本の歌のうちの一方がそれだったのか。

 明日、8月15日は日本ではいわゆる「終戦記念日」です。ちなみにインドネシア独立記念日はその翌々日の8月17日。日本ではテレビなどでアジア・太平洋戦争についての特集が組まれるなど、「記憶」がクローズアップされる日です。ただ、私は今夏、インドネシアにいるわけです。初めて海外で迎える8月15日。しかも「独立」を果たしたインドネシアです。

 日本でインドネシアに関する情報に接するとき、「インドネシアは"親日"だ」とか「インドネシアの独立を日本軍が手助けした」などというようなことがまことしやかに語られていることがありますが、1942年から1945年についてそういった言説を信じるのはかなり一方的で都合がよく、しかも危険なことです。例えば、日本の広島・長崎に原子力爆弾が投下されたことが影響して戦後の日本では核廃絶の運動が盛り上がりましたが、それを「アメリカのおかげで」などと言ったらどう感じるでしょう? もちろん個人として核廃絶の運動に共感し尽力したアメリカ国籍の人物もいたでしょう。しかしそのことと「アメリカのおかげ」なるぞんざいな表現を一緒にされても反応に困るだけです。そしてもっと一般的に言っても、単なる影響や事実同士の因果関係を「意図」で短絡させようとするのは非常に危険なことで、慎重にならなければなりません。このような短絡は陰謀論などでよく見られます。

 「お祖父さんが軍歌を知っていること」と「日本軍への愛着」を短絡させるのも同じように慎重であるべきでしょう。ただでさえ日本政府はそういったアジアの人々の苦難の歴史や気持ちに鈍感な姿をことあるごとにさらしてきました。この8月15日から8月17日の3日間は最大限にインドネシアにおけるそのテクスチャー、肌感を感じとるべくできるだけ敏感にさまざまな人たちを見つめたいと思います。

 

インドネシアにとっての「インターナショナル」

 日本では「外国人」というと、どんな人がイメージされることが多いでしょうか。金髪碧眼の白人?それとも荷物をたくさん持った、せわしないアジア系の人でしょうか?あるいはもっと具体的に「○○人」という姿かもしれません。最近の日本のテレビでは、海外出身の人を集めてきたり、インタビューしたりして番組作りされることが多いですよね。そういう時にテレビに映る外国人はどんな姿をしてますか?どこの国出身の人が多いでしょうか。…というときにあなたが想像した「外国人」の姿、それこそ私たちが無意識に「外国人」として期待している姿かもしれません。日本にとっての「世界の国々」がどんな姿か。バラエティ番組における「外タレ」のふるまいや、外国人をテレビで取り扱うときの演出など(変にハイテンションな声を当てたり)はその期待を反映しているということもできます。

 海外で少し過ごすと、そういう前提が自明でなかったことに気が付きます。「なんだ私にとっての『世界』はこういう広がりしかなかったのか」と。逆に、「ここの国の人たちは世界にこういうイメージをもっているのか」という、その国の人々がもっている世界への期待、「外国人」カテゴリーへの期待にも、アウトサイダーだからこそ敏感に気が付いたりします。今回は、私が興味深いと思ったインドネシアにおけるそういった例のひとつを見ていきたいと思います。

 日本にも、日本に住む「日本語が不自由な外国人」を滑稽に取り上げることがありますよね(例えば、タレントのボ○ー・オロ○ンのテレビでのふるまいやそこで生まれる「笑い」などが典型です)。インドネシアにもそういうコメディーの形態があります。最近知った、「クラス・インターナショナル(Kelas Internasional)」という番組がその一例です。

www.youtube.com

 この番組は、インドネシア語の語学学校のあるクラスの日常をおもしろおかしく描いたコメディドラマなのですが、そのクラスに入学した8人の「外国人」役の人々の姿が非常に興味深いのです。もし、日本の日本語学校を舞台にしたコメディだったら、どういう「外国人」が出てくるでしょうか。アメリカ人はたぶん出てきますし、中国人や韓国人もいるでしょう。ドイツ人やフランス人も可能性は高い。ロシア人やインド人は少し可能性は低いかな?あと挙げるとしたら…バランスを考えて1人アラブやアフリカからということになるでしょうか。インドネシア人がいる可能性はかなり低い。

 さて、ではインドネシアのこの作品ではどうか。出てくる外国人は国別に以下のとおり(順番は作中での自己紹介順)。

1.中国人(女性・銀行員)

2.韓国人(男性・電機機器メーカー社員)

3.日本人(男性・指圧師)

4.ナイジェリア人(男性・留学生)

5.インド人(女性・主婦)

6.コロンビア人(男性・コーヒーショップ店主)

7.オーストラリア人(男性・俳優)

8.ブラジル人(女性・モデル)

 どうでしょう?意外でしたか?ここで挙げたのは一話で紹介された人々なので、かならずしもそれ以降新しく登場する人々を含んでいませんが「主要キャラ」なのは間違いありません。

 非常に面白いのは、ヨーロッパの国が一つも入っていないことです。日本人は「外国人」というと、はじめにアメリカやヨーロッパの主要国をイメージするか、中国や韓国など「近いアジア」をイメージすることが多いのではないかと思いますが、インドネシアではだいぶ事情が変わるようです。

 ひとつひとつ見ていきましょう。中国人は「中国国際銀行」の社員で、「チャイナ・マネー」を連想させます。韓国人は電機機器メーカーに勤めていて、「歌うのが好き」と自己紹介し、韓国のアイドルっぽいファッションをしています。日本人は落ち着きがなく、いつもペコペコ頭を下げていて、発音がヘタ。そして、中国人と日本人、韓国人はいつもささいなことで口げんかをします。ナイジェリア人はにこにこ笑みを絶やさないけれど、いつも的外れなことそしてしまう純朴な青年。インド人の主婦はおっとりしたお金持ちで、コロンビア人のコーヒー店主は二枚目的な役回り。オーストラリア人の俳優はちょっと粗野で、ブラジル人のモデルは男性への身体的な接触が多い。

 動画を見てもらえば少しわかるかもしれませんが、インドネシア人が「外国人」の振る舞いとして面白がっていることは、日本人のそれとけっこう違うようです。こういった表現は、いっぽうではステロタイプを助長させているかもしれませんが、他方ではカリカチュアとしてさまざまな思惑でインドネシアに来る「外国人」を笑い飛ばしているわけで、インドネシア人の「外国人」感覚が非常に分かりやすい形で現れているこれ以上ないケースワークでもあります。

 さて、こうなってくると翻って日本のことが気になってきます。今後日本人は「外国人」というなんでも詰め込めるカテゴリーをどう利用し、どう操作していくのでしょう。そしてどう笑い、どう怖がり、どう政治化していくのでしょうか。その過程をみていくのに、日々消費されている表象は有用なツールになりそうです。

 

もうちょっとちゃんと書くつもりでしたが、力尽きました。気が向いたら第二弾を書くかも。

インドネシアの洗濯物事情

 なかなか、ブログを続けるのは難しい…。なにかテーマをひねり出しつつ、「やめないこと」だけを目標にした意識の低さでやっていきます。

 さて、わたしはいま、インドネシアにおります。なぜインドネシアにいるのっていう話をすると長くなるので、とりあえず今は飲みこんでください。ただ、旅行ではなく、すくなくとも一か月以上の長めの滞在です。

 海外旅行によく行くひとにとってはおなじみの問題かもしれませんが、一週間以上にわたる海外滞在でけっこう悩ましいのが、洗濯をどうするか。予想していないトラブルやリスクの多い海外では、衣服をたくさん持っていって荷物が大きくなるのはできるだけ避けたいですよね。持っていく服は最小限、海外ではできるだけ身軽に、というのが私のセオリーですし、そういう方は少なくないのではないでしょうか。

 2週間くらいの滞在なら、下着だけホテルで手洗いして服は多少汚れても着てしまうというのも一つの手です。汗をかきづらい地域ならとくに。しかし私がいるのはインドネシア。気候区分はバチバチの熱帯です。8月はインドネシアの気候としては過ごしやすい季節(夏の東京よりずっと快適です)ですが、とはいえ暑い日はあります。洗濯は不可避。しかし、すべて手洗いするのは非常にめんどくさい。そこで出番なのが、「洗濯屋さん」です。

 インドネシアの住宅地には洗濯屋さんがたくさんあります。私が滞在している場所の近所、半径500メートルくらいのエリアだけで考えてもおそらく10軒以上あります(Googleマップ調べ)。すごく多い。ただ、「洗濯屋さん」という語感から想像がつくかもしれませんが、日本にあるようなコインランドリーやクリーニング店とは全然違うものです。日常的な洗濯物を預けると、2~3日できれいに洗ってくれるサービスを提供しているお店で、私が使っているところでは1~1.5キロくらいの洗濯物でだいたい5500~6500ルピア(だいたい50円前後)。安い! 仕上がりも丁寧で、きちんとたたんでフィルムに包まれた状態で渡してくれます。

 みなさんもインドネシアに行った際には試してみてはいかがでしょう。「Laundry」という看板を見つけたら、お店の人に声をかけて洗濯物を見せ、「cuci ini(チュチ イニ)」と言ってみましょう。高くとも百円を超えない値段でそこそこの量の洗濯物を預かってくれるはずです。

 

f:id:umi_tori:20180810193240j:plain

↑天気がいい日のジョクジャカルタ

ブログをどう使うかは考え中

 なにかのきっかけとして軽い気持ちで始めたブログですが、トピックを決めてできるだけ頻繁に更新していった方が良いんでしょうが、まったくそんなことを継続する自信はありません。Twitterですら毎日ツイートなんてしてないのに。

 ただ、いまはまだ作ったときの勢いが残っているので、今日はなにかひとつ、書くことを決めて書いていきたいと思います。…とか書いているうちに、ひとつトピックを思いつきました。

 

 ブログでもTwitterでもFacebookでも、なにかをインターネットで発信するときには「事実」に気をつかう必要があると、一般的に認識されていますよね。私は何の気なしに「このブログでは“事実”ではないことを書かないように気を付けなければならない」と書こうとしていました。今回はこのやっかいな問題、“事実”について考えていきたいと思います。

 事実っていったいなんでしょうか。ひとつためしに考えてみるなら例えば「世界についての正しい記述」とでもなるのでしょうか。しかし、この一見簡単なことが難しい。どうすれば正しい記述が可能になるのか。「記述が正しい」っていったいなんでしょう。あるいはそもそも、前提となっている不可分な一つの世界の実在は確かなのでしょうか。よく知られていることなので改めて書くのもちょっと気恥ずかしいのですが、いまから40年くらいまえ、1970年代くらいに、この「記述の“まえ”に存在する世界」そのものの実在性を疑問に附すムーブメントが起こりました。このブームのことを認識論的構築主義と表現することがあります。このブームは、一般的には私たちが「世界」として把握しているものは解釈の産物であるという主張を繰り出していきました。このブームに乗っかる人はかなり多く、その結果、私たちが知っているのは、世界そのものではなく、世界についての物語群であるということがかなり広く信じられるようになったようなのです(信じられている、と書いたことからわかるかもしれませんが、私自身はあまりこのブームに乗っかる気はありません)。

 このブームの結果なにが起こったか。「事実」について語ろうとすると「そんなのは嘘っぱちで、イデオロギーの産物だ!事実なんてない、そこには解釈があるだけ、物語があるだけだ!」と言う人(こういう批判を浴びせる人を「反本質主義」の陣営に与すると見ることもあるようです)や、「お前の事実はそうなんだろう、お前の中ではな。俺のと違うからって文句いうなよ」(政治的な局面では一部のオルタナティヴな右派が信奉することが多いようです)と言う人がすごーく増えました。こうして、すべてが懐疑と恣意にいろどられていきます。「事実」はどんどん難問になっていくわけです。こういう難問のことを、衒学的ジャーゴンで「アポリア」と呼ぶことがあります。

 このブームのゆくえがどうなるのか、私は非常に興味深く、また細心の注意をもって見守りたいと思っていますし、自分なりになんとかこれになんとか向き合いたいわけです。というわけで、いま私はテリー・イーグルトンの『文学という出来事』という本を読んでいます。

(中略)なぜなら概念とは、わたしたちが事物について理解している何かではなく、事物についてのわたしたちの理解のしかたそのものヽヽヽヽなのだ。なるほど、まちがった理解のしかたというものはあるかもしれないが、これは概念が事物とわたしたちの間に割って入るからではなく、また概念が事物の派生版にすぎないからということでもない。こうした誤解の背後にあるのは、概念を頭のなかにある画像とみなすあてにならないメタファーである。この罠から逃れようとして、メタファーとは事実を受動的に反映するのではなく積極的に事物を構築するのだと主張したところでだめである。あまたの認識論的構築主義の背後には概念をものごとのやり方としてではなく擬似事物とみる物象化された観点がある。そのため、たとえばアルチュセールの弟子たち(ちなみにわたし自身も、ある一時期、曖昧ながらも弟子たちのひとりと目されてもしかたのないところがあったが)は、世界における現実の事物と、事物の概念的構築とをうやうやしく対比し、後者だけが、わたしたちが事物にとって知りえる唯一のものとよく主張したものだった。ここにあるのは「概念」という語の文法をめぐる誤謬であり、この誤謬から文化理論はまだ完全に脱却できていない。

Eagleton, Terry (2012). The Event of Literature. Yale University Press.(テリー・イーグルトン 大橋洋一(訳)(2018).文学という出来事 平凡社)p.66

  ひとつつけ加えるのなら、私は世界を解釈することではなく、世界を変えることの方にも大きな関心を寄せているのです。

 

あーつかれた。ブログの更新つづけられるのかな…

軽い気持ちでブログを始める

 私は人文社会科学系の大学院生です。

 院生、つまり研究者のたまごであるにもかかわらず、私は目の前に自分を動かしてくれるものがなければ手が動かないタイプの、端的に言って研究者に向いていない人間です。

 そういった自己認識にもとづいて、私が私の学びをなんとかかんとか積み上げていくためには、とにかく文章にする動機が必要であると思って作ったブログです。ですので、このブログには独りよがりなものを書いていくつもりです。見る人が見れば、身近なひとには正体をみやぶられてしまうかもしれませんが、そういう方はあまり周りには言いふらさず、こっそり耳打ちしてください。恥ずかしがります。

 基本的には読んだ本の内容や、日々接するニュースへの考え、ちょっとした日常のなかでの気づきなどを書いていく予定です。断片的なものや、よく噛み砕かれていないものをそのまま書きますので、他の誰かの役に立つようなものではありません。未熟な人間がやることですので、書かれてる内容で不快になるひとや怒る人がいるかもしれませんが、そのときどきで自分なりに検討しながら続けていきたいと思っています。